秘密の味

λμ

秘密の味

 昼休みの予鈴を聞きながら、僕はどこで弁当を食べようか考えていた。校庭は土埃が気になるし、中庭はカップルの巣窟で、学食に一人で行くのは緩慢な自殺行為に等しい。ここはやはり校舎の裏か――せめてトイレだけは避けたいなと思っていると、肩をポンと叩かれた。


美袋みなぎ。屋上いかない?」


 クラスメイトの東儀とうぎ真奈美まなみだ。美人で、クラスのなかでも目立つ方で、なんで友達の少ない僕なんかに話しかけてくるのか未だに分からない。


 初めて彼女が僕に話しかけてきたのは、新しいクラスになってから二ヶ月は経っていたと思う。いつも一人でいるよねという質問から始まって最初は怯んだのだが、つづく友達になろうの一言に僕はコロっといってしまった。


「美袋? 聞いてる?」

「え、あ、う、うん……」

「出た。え、あ、う」


 僕の声真似をして東儀は笑った。


「行こ。屋上」

「お、屋上って……」


 土埃の心配は少ないけれど、今の時期は強く北風にさらされる。

 どうしよう、と迷う僕にしびれを切らしたのか、東儀は僕の耳に薄紅い唇を寄せて甘い声で囁いた。


「秘密の食べ方、教えてあげる」


 それだけいって、東儀はさらりと背を向け歩きだしてしまった。気づけば僕は、花のように開いた彼女の髪の残り香を追って、弁当を片手に席を立っていた。


 秘密の食べ方ってなんだろう――そんな疑問は、後から湧いた。

 

 やはりというべきなのか、屋上は昼食にはまったく適さない環境だった。校舎の背丈の分だけ風が強くて、弁当箱をぶら下げる手が凍りつくように思えた。

 

 何もない屋上であるわけもない風よけを探す僕をよそに、東儀は堂々とド真ん中に立って振り向いた。楽しげに笑い、手を拱いている。


 まさかそんなところで? と、僕が疑問を口に出すより早く、東儀はスカートを押さえながらストンとしゃがみこんでしまった。仕方なく、僕も東儀の前にいってかがみ込むと、彼女は僕の肩を突いた。当然、僕は尻もちをつく。


「な、なにするんだよ」

 

 急な攻撃に僕の声は震えた。弁当箱の中身が気がかりでもあった。

 東儀はクスクス笑いながらいった。


「秘密の食べ方、教えてほしくてきたんでしょ?」


 ぞくり、と僕は背筋を震わせた。妖艶という言葉が適当かはわからない。僕らの歳を考えたらそうじゃないのだろうとも思う。それに、胸の奥が痛いほど心臓が強く早く打っているのは、半分の期待と、残り半分と少しの恐怖があった。


 東儀の目は獲物を見ているようで、僕はいまから食べられてしまうのではないかと妙な妄想までした。それならそれでと思ってしまう自分も怖かった。


 東儀は前のめりになり、氷のように冷たい床に膝と手をつき、素早く、けれどゆっくりと僕に顔を近づけてきた。黒く輝く瞳に、情けない目をしてだらしなく鼻を伸ばす僕の冴えない顔が映り込んでいた。


「それじゃ、教えてあげるから――」


 東儀はスカートに手を伸ばした。彼女の瞳の奥で僕が生唾を飲み込むのが見えた。


「これに食べちゃってもいい秘密を書いて」

 

 いって、東儀はスカートのポケットから、小さく折りたたまれたノートのページとボールペンを出した。


「……え?」


 期待を裏切られたような、ほっとしたような、とにかく困惑する僕の胸に、東儀はノートのページとボールペンを押し付けた。慌てて手で押さえると、彼女はもうスカートを巻き込んで両膝を浮かせ、しきりにさすっていた。


「いや、冷たいねー。……ほら、早く書いて。教えてあげるから」

「え、あ……」

「うん」


 東儀は笑っていった。


「私に見えないように後ろ向いて書いてね。そしたら四つに折って」

「……はい」


 言われるままに東儀に背を向け、僕はノートのページを開いた。


 ――秘密。


 口の中で唱えてみたが、よくわからない。肩越しに振り向くと、東儀は晴れ晴れとした顔で寒空を眺めていた。僕の視線はつい下に滑った。寒さのせいか、床についたせいか、少し赤くなっていた。東儀が振り向きかけるのに気づいて、僕は慌てて首を振り戻した。


「私に食べられちゃってもいい秘密だよ?」

「え、あ……うん」


 いつもの返事しかできず、後ろから東儀の笑い声が飛んできた。僕は頬が熱くなるのを感じながらボールペンを出し、深呼吸して一気に書いた。


 書きだすなり強くなりはじめた鼓動は、書き終わる頃には視界が揺れるほど強くなっていた。絶対の秘密だ。食べられちゃってもいい、という言葉の意味はわからないけれど、見られてもいいということだろうと、僕は思った。


『美袋康介こうすけは東儀真奈美のことが好きです』


 それは見られてもいい、僕の絶対の秘密だった。僕は震える手でノートのページを四つ折りにして、さらにもう一回折って、東儀のほうに向き直った。


「できた?」

「で、できたよ」


 僕は東儀の顔を見られなかった。うつむいたまま、ノートのページを差し出した。けれど、その手を、東儀の柔らかくて小さな手が押し戻した。


「それは持ってて。証明に使うから」

「……へ?」


 証明って、なんの? と、僕は思わず顔をあげた。ちょうど東儀が大きく口を大きく開けたところだった。


「え」

いははひはふいただきます


 いって東儀はがぶっと口を閉ざした。もぐもぐと咀嚼し、ごくんと喉を鳴らす。変な光景だった。なにしてるのこの人、と僕は瞬きを繰り返すしかない。


「ごちそうさまでした」


 いって、東儀は両手を合わせて僕に頭を下げた。なにしてるの、この人。

 僕が首を傾げると、東儀さんは急に肩をくつくつと揺らして、やがて声をあげて笑いだして、最後には見たこともない大声で笑った。こんな変な人だったっけ、と僕が首を捻っていると、彼女は目尻にたまった涙を指で払いながらいった。


「――知ってた」

「……はあ? なにを?」


 わけがわからなかった。


「だから、美袋が私のこと好きだってこと」

「は? なに? 僕が? どういうこと?」


 僕が東儀を好き? なぜ? 東儀のことは嫌いじゃない。友達の少ない僕にとっては大事な話し相手だ。でもだからといって、好き? そうなのだろうか。僕は僕が東儀のことを好きなのか考えていると、彼女はいった。


「ほら、そこでその紙を見る」

「あ、そうか」

 

 紙に秘密を書いたことは覚えていた。食べられちゃってもいい秘密。


 ――あれ?


 違和感があった。ついさっき書いたことが思い出せない。僕が思わず顔をあげると東儀はどうぞとばかりに手を出していた。


「え、あ――」

「うん」


 東儀にからかわれつつ、僕は促されるままに紙を開いた。


『美袋康介は東儀真奈美のことが好きです』


 そう書いてあった。


「……ええええぇぇぇぇぇぇ!?」


 僕は大声をあげていた。字は確実に僕が書いたものだ。というか、書いた記憶そのものはある。なんて書いたか、なにが秘密だったか、それだけがぽっかりと抜け落ちていた。


「え、これ、え?」


 僕は東儀と紙の間で視線を往復させ、急に恥ずかしくなってくるのを感じた。


「し、知ってた、って……」

「そう、それ、知ってた。でもまあ、私が知ってようと知ってなかろうと、美袋が私に秘密にしてたことだし証明にはなったかなって」

「え、いや、でも、僕……東儀さんの、こと……」


 好き? 好きなの? 首を傾げるしかなかった。好きだったらドキドキしたり、恥ずかしくなったり、とにかくそういうことが起きるはずだ。


 けれど、僕は。


 僕の目は、東儀を見ても、なにも感じなかった。


「……だよねえ。でもまあ、大丈夫。すぐ元通りにしてあげるから」

「へ?」

「約束。秘密の食べ方、教えてあげるっていったじゃん」


 そうだった。僕は秘密の食べ方を教えてもらうためにこんな寒いところに――そう思うあいだにも東儀が四つん這いになって僕に顔を近づけ、肩に手を置いた。彼女の黒い瞳の奥に胡乱げな顔をする僕が映っていた。


「それじゃあ私の秘密を食べるぞって、強く念じながら、口を開いて」

「う、うん」


 言われるままに僕は瞳の奥を覗き込みながら念じ、口を開いた。


「そしたら、そのまま、いただきますっていう」

いははひはふいただきます

「私の頭を丸かじりするイメージでがぶっと口を閉じて」


 僕は東儀の瞳の奥を覗きながら想像した。大きく開いた口に頭を収めて――


 がぶっ。


 瞬間、僕のなかにどっと記憶が溢れた。膨大な、膨大な、膨大な記憶だ。口の中には秘密の味が広がり、一言では捉えきれない極彩色の感情が胸の奥で花火のように閃き炸裂した。そして僕は東儀のことが好きなのを思い出し――、


 東儀が僕のことをことを知った。


 黒い瞳の奥に、友達の少ない、暗い、うざい、存在感が希薄な、ちょっと色目を使えばだらしなく言うことを聞くであろう、東儀のことが好きだったバカで情けない僕の顔が映っていた。


「ごちそうさまでした」


 僕の口は勝手に動いた。そういうべきだと知っていた。

 途端に東儀の瞳が揺らぎ、彼女の手は僕を強く突き放した。


「は!? なに!? キモ! なにしてんの!?」

「……東儀さんが連れてきたんじゃん」

「は? 知らないし。なに? げ、なんも覚えてない。うわ」


 東儀は僕のことを汚物を見るような目で見ていった。


「お前、私になんかしてたら殺すから」

「してないよ。されたんだよ」

「は? マジでキモい。死ねよ」


 いって、東儀は立ち上がり、僕の顔を見て舌打ちしてから背を向けた。

 僕にはどういうことかもう分かっていた。東儀は僕とのことの大半を秘密として抱え込んでいたのだ。なぜそうしていたのかといえば簡単で、秘密の食べ方を捨てた後でクラスメイトに変な目で見られたくなかったからだ。


 僕の中には、東儀が食べたクラスメイトの秘密が大量に入ってきた。血肉として秘密が流れていた。岩田いわたさんが万引きの常習犯であることや、高見たかみくんが彼女の鈴木すずきさんを陰で便女べんじょと呼んでいることや、担任の持田もちだ先生がクラスの女子をどういう目で見ているか、進路指導の朝倉あさくら先生のホストクラブ通い――絶望したくなるほど大量の秘密と、それらにへばりつく感情で、僕は気を失いそうだった。


 記憶と感情の大渦に呑まれながら僕は考えた。

 この秘密を使って、色々なことができないか――と。

 でも、すぐに東儀の秘密が教えてくれた。なにもできないのだと。

 

 東儀は原田はらだという男子を自分に振り向かせようと、秘密の食べ方を教わったのだ。


 けれど、秘密を食べてみると、原田にはもう浅丘あさおかさんという好きな人いて、東儀自身は嫌われていると知った。それでも彼女は諦めなかった。浅丘さんの秘密を食べて原田に教えてみたり、浅丘さんを脅迫してみたり、色々なことをした。


 無駄だった。


 秘密を食べれば秘密にまつわるものが当人から失われてしまう。記憶も感情もなくなってしまう。脅迫の材料にならないのだ。物証のあるものならばと試してみても当人から感情が抜けているため、あっさりと処分されて終わってしまう。


 かといって、自分への悪感情を取り払うために秘密を食べようとすると、そもそも秘密にしていないから食べられなかったりもする。仮に食べられても、嫌われるからには理由があって、一時的には戻っても、いずれは同じ理由で嫌われてしまう。


 やがて東儀は絶望し、二つの決断をした。


 一つは秘密の食べ方そのものを忘れてしまうこと。さいわい、東儀は誰にも秘密の食べ方を教えていなかったから、あとは食べてくれる人を探すだけでよかった。東儀は何人かに話しかけてみて、秘密を食べることで自分への感情をたしかめ、僕を選んだのだ。その作戦は成功した。


 そして、もう一つの決断。


 浅丘さんだけは殺す。東儀は許せなかったのだ。何度別れさせても原田と惹かれ合う浅丘だけは生かしておけなかった。数え切れないくらい秘密を食べてよく似た感情を東儀は憎しみだけを純化させ、実行に移した。


 それは、今朝のこと。


 僕は知っている。どこで殺したのかも、どうやって殺したのかも、証拠をどこで処分したのかも知っている。そしてまた、秘密を食べられた東儀がなにもかも覚えていないことも。


 通報すれば、東儀は捕まるかもしれない。けれど、感情も記憶も抜け落ちた彼女は冤罪を訴えることはあっても罪悪感を抱くことはないのだろう。罰を与えられても不幸としか思わないのだろう。


 僕は――僕はどうでもよかった。

 抱え込んだ秘密でどうになりそうだった。

 秘密の食べ方なんてものは、僕自身の東儀への感情も含めて、綺麗さっぱり忘れてしまいたかった。

 

 だから僕は、教室に戻って、一人の女子に声をかけた。それは以前の僕ならば多大な勇気を要する行動だったけれど、無数の感情に溺れかけている今では、なんでもないことだった。


「ねえ、秘密の食べ方、知りたくない?」

「――は? え? キモ……なに?」


 女子は僕のことを睨んでいた。

 そう。順番が大事なのだ。

 僕は大口をあけていった。 


いははひはふいただきます


 そして、目の前にいる女子の頭を飲み込む姿をイメージしながら――、

 


 がぶっ。

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秘密の味 λμ @ramdomyu

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