最終章 闇の主と代替わりの秋1

 戦前から続く葉山酒造はやましゅぞうは、不況と安酒の発売で地位が揺るいでも没落ぼつらくはしなかった。

 それは祖父の葉山滝太朗が銘酒めいしゅ『鈴』を造り続け、自分の代わりとなる杜氏とうじも育てたからだった。

 しかし、今回の件は事情があまりにも違っていた。

 紀枝の父が所有していたアパートが火事になり、そこから逃げ出したと思われる人物が赤子の遺骨いこつを抱いていたというのだ。

 逃げた人物は幽霊が出たとか、妊婦を乗せたからとか、そんな話ばかりしているという。


 当初、警察の話では、この男が酔っ払ってアパートに侵入して火を付けたのだ――ということだったが、焼残やきのこされたタンスから葉山家の後妻……彩の日記が発見されて事件は急転した。


 葉山の当主が、十六歳だったのに水商売をしていた彩に手を出し、妊娠させて堕胎させ、その後は暴力を振るって流産させたりしていたことが明るみとなった。

 火事から逃げた人が抱いていた赤子の遺骨は、その内の一人であるという。


 まずは死体遺棄したいいきの疑いで葉山の当主夫婦は逮捕され、捜査が進むにつれて殺人の罪が加わって、最終的には刑務所に収監しゅうかんされてしまった。

 この事件によって、葉山酒造は瀕死ひんしの状態まで追い込まれたのだった。


「……」


 無言のまま、葉山実来みらいは母屋の廊下を進んでいった。

 彼女は、彩が刑務所で産んだ子供だった。


 紀枝がスコップで頭を殴った夜、二階の廊下の窓から紀枝を見ていた彩は、げたげたと笑いながら階段を下りて足を滑らせて救急車で運ばれた。

 その時、彩も腹の子も死にかけたが、奇跡的に命を取り留めた。


 この子の名は、彩が産む前から決めていたという。

 男でも女でも『実来』にする……と。


 そして、今、葉山酒造の敷地にある母屋おもやには、祖父と実来が残っている。

 実来は、口がきけぬ子供に育ってしまった。

 母である彩が男と遊び歩いていたので、父は、その娘である実来が自分の子供なのか疑っていた。

 祖父だけが何とか彼女を育てようとしたが、酒造りと子育ての両立はなかなか難しかった。


 実来は、物書きはできるが声を発することはない。

 想いを伝える時は紙に書いて渡す。

 その紙を渡す手が怯えているので、彼女を知っている者達は気の毒に感じていた。


『葉山酒造は、女が駄目だめになる家ね』


 近所の人々は実来を見る度に、つい言ってしまう。


『里菜さんと紀枝ちゃんがそうだったし、後妻の彩さんも消えたし、実来ちゃんも葉山酒造の名家の重みにやられてしまうんじゃないかしら?』


 誰かがそう言った時に、町一番の年寄りがこんな風に言ったという。


『葉山は、昔から呪われているんじゃよ。あそこの祖父さんの妻も、その母親も、もっとさかのっていっても――みーんな早死にするか気が狂うか、家から出て行くのさ。いつも酒造りをする男だけが生き残る』


 昔のことを良く知らない者達は、その言葉を信じなかったが、実来の祖父は事実だなと低い声で呟いていた。


(――だから、きっとわたしも……死ぬか消えるか狂うかだ)


 実来は色が白い美しい少女で、濃い顔立ちが少しだけ彩に似ているが、彩のような毒はなく整った可愛らしい顔立ちをしている。

 祖父が言うには、猫のような細い茶髪と身から漂う品の良さが祖母に似ているとの話だ。

 だが、彼女には笑顔がない。そもそも感情というものを表に出せない。

 それは両親に嫌われて育ったせいだった。


(でも、お父さんとお母さんに殺されなかっただけ、まだましだね)


 そんな風に、実来は顔には出さずに心の奥で思っている。

 父は刑務所で流行風邪をうつされて亡くなり、母は自分を産んですぐに父と離婚したから会ったことがない。


 ザシャリ、ザシャリ。


 旧酒造の裏庭で、実来は雑草を握りしめ草刈り鎌を動かしていた。

 独りぼっちで家の中にいると息が詰まり、かといって話すこともできない彼女は独り裏庭で遊ぶようになっていた。


(……草、すぐにぼうぼうになってしまう)


 遊び、と己の中で思ってはいるが、その行動には謝罪しゃざいの念がある。

 自分がこうなってしまったのは、この庭で狂って死に向かった紀枝という姉に呪われているからに違いない。

 だから、この庭を手入れすれば呪いが解けるかもしれない。


(今日中に、ここの雑草をみんな刈ろう……)


 枯れ草を刈り、放っておくと前へ後ろへ右へ左へと奔放ほんぽうに枝を伸ばしていく木々を整え、赤いほこらの横に小さな花壇を作り季節の花を植える。

 真冬が近づいている今、赤い西洋桜草と白のパンジーと雛菊ひなぎくが花壇に色を添えていた。

 赤と白にこだわったのは、理由がある。

 秋から裏庭の紅葉が鮮やかになり、小さな赤い祠が際だって見え、他の色といえば白い旧酒蔵と数本植えられた白樺しらかばの白だった。

 それを見て、白と赤以外は相応ふさわしくないと感じたのだ。

 

 古い赤い祠には、十年前に新たに付けた扉がある。

 ちょっと前に、その扉を開けてみたら、中に稲荷大神のお札が何枚も詰まっていた。


 封印をしていると祖父が言った。


 祖母の命日に、タラランタララランとレコードを聴ききながら酒を飲んで酔っていた祖父が祠のことを少しだけ話してくれた。

 葉山酒造の創業者が金を稼ぐために鉱山で働いていた頃、赤黒い変なものを山で拾った。

 すると鉱山で働いていた者達がバタバタと倒れ、信心深い創業者がイタコを呼んだという。

 祖先の霊を呼び寄せて話を聞くと「それは山人の目だ」というから祠を建てて奉ったそうだ。

 山人という者は、人助けもしてくれることがあるから、奉れば新たに作る酒造を盛り上げてくれると信じたらしい。


 なぜ、そのように信じたのかは知らない。

 だが、実際、創業者の代で葉山酒造は大きく成長したのだという。

 では、なぜ、その山人の祠にお稲荷様のお札を詰めて封印しようとしているのか……。

 酔いが覚めた祖父にメモを書いて尋ねてみたが、祖父は苦笑いをして語りもしなかった。

 そういう風に素っ気なくされると、たった一人しかいない家族にまで突き放された気がする。


 すると、実来の意識は凍った心の奥に潜り込む。

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