第四章 もう一人の声なき慟哭10

 紀枝は何も言葉を返すことが出来ず、じっと未子を見つめた。


(守る……わたしを?)


 未子は紀枝の唯一の友達だ。

 でも、それは表面上のことのはずだ。

 お互いに友達がいなくて、寂しさを紛らわせるために身を寄せ合っているだけだった。

 紀枝は未子を見て「自分よりも可哀想な人がいる。だから、まだ大丈夫」と自分を励ますことがあった。

 多分、未子も自分と同じことをやっていると紀枝は考えていた。


「……わたしが、未子ちゃんより可哀想だから、守ってあげるって思ってるんだ」

「思わないよ。……ううん、思ってたよ」


 未子の窪んだ目の中に、小さな輝きが見えた。

 それは、生気の輝きと言うより……もっと神秘的な光のようだった。

 澄んだ夜空に浮かぶ金星のように、はかなくも優美な輝きであった。


「紀枝ちゃんの方が可哀想かわいそうだから、私は全然平気って思ってた。でも、紀枝ちゃんと話す内に……嬉しいとか楽しいって感情が出てきたの。私とお話をしてくれたのは紀枝ちゃんだけだし、私を友達だって言ってくれたのも紀枝ちゃんだけなの」

 

 ああ、そうだった。

 心があまりにもすさんでしまったから、未子と遊んでいて楽しかった思い出すら悪意で塗り固めてしまっていた。

 最初は、楽しかった。

 語り合うのが楽しくて、時間が早く過ぎるように感じるほどだった。

 いつも、遅く帰って彩に怒られるくらい夢中になって話し込んでいた。

 だけど、だんだんと彩の言葉がきつくなって、意地悪がひどくなって、楽しいという思いすら心の中に無くなってしまっていた。


『紀枝、急げ、此処ここから出るぞ』

「……未子ちゃんは、わたしのことが好きだったの?」


 主に急かされる中、紀枝はそんなことを聞く。

 すると未子は頷いてから、紀枝からそっと目を逸らした。


「紀枝ちゃんは、私のことを知ったら私のことを大嫌いになるけど、私にとって紀枝ちゃんと過ごした時間は……とても温かくて大切だったの」


(そういえば、わたしって未子ちゃんのこと何も知らない……)


 隣町のアパートに住んでいて、白い汚れたタンクトップを着ていて、幽霊じゃないけど幽霊のような者。

 時々、変なクッキーのような物をくれるけど、それがとても不味い。

 そんな些細ささいな情報しか持っていなかった。


「紀枝ちゃん、主の左目を捨てようよ」

『俺の目を捨てたら、お前達を呪ってやる』


 未子の声に重なるように、主の声が響いた。


「手に握ったものを地に捨てるだけでいいの。それで、ひとまずは終わりだよ」

『俺の目を捨てたら、永遠にお前達を呪ってやる。お前達が生まれ変わっても、何度でも何度でも黄泉よみに引きずってやる』


 主の語気ごき次第しだいに強まってくる。

 このまま未子の言う通りにしたら、確実に呪われるだろう。


「紀枝ちゃん、早く捨てて。もう、私……身体が……あっちに戻っちゃう……」


 氷の刃によって未子の脚はズタズタに引き裂かれていた。

 彼女の白い脚から生きている人間のような血が流れて、地面を赤く染め上げていく。


『おれの左目を飲まないなら呪うぞ、紀枝……おれはお前達を未来永劫みらいえいごう呪うぞ。生きている時より苦しい目にわせてやる』


 主の声が氷の刃をわずかに振動させた。

 未子の鮮血が震えながら流れていき、紀枝のサイズが合わないブーツの先端を汚しはじめる。

 紀枝は赤くなっていくブーツを見て、彩を思い出し、それから未子を見て儚げに微笑んだ。


「わたし、主と一緒にいる」

「紀枝ちゃんっ!」

「未子ちゃんは帰って。ここにいたらダメだよ」

「お願い、私と一緒に来て!」

「……」

「紀枝ちゃん、紀枝ちゃんがスコップを振り下ろした時、力が少しゆるんだでしょ。それは生きていると楽しいことがあるって知ったからだよ。ねぇ、タクシーでおじちゃんと話していた時楽しかったでしょ。ああいう楽しいこと、あれより楽しいこと、もっといっぱいあるはずなんだよ」


 未子が激しく語っていくが、紀枝の心は決まっていた。

 主は……恐ろしい力を持っている。

 彩よりも、恐ろしい力を持っているのだから逆らってはいけないのだ。

 逆らったら、紀枝も未子も殺されてしまう。


「迎えに来てくれたのに、ごめんね。さようなら、未子ちゃん」


 右手に握っていた左目を、空いてる左手で掴んだ。そして、口の中に主の乾いた目玉を放り込む。


「ダメェェェェェ!!」


 未子の悲鳴が、生死の境目の世界で大きく広がっていく。

 だが、紀枝の意識は吹雪ふぶきの夜のように白濁はくだくしていって、哀しい声を捕らえることが出来なくなっていた。

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