第四章 もう一人の声なき慟哭9

 主の答えは無かった。

 だが、空にいるだろう主の気配が、わずかに揺れるのが分かる。

 それが答えだった。

 紀枝は、まだ生きているのだ。


 ――生きていれば家に戻れる。家は、この場所より……ずっといい。

 では、家よりも主の側はいいのだろうか?


 これが童話なら、迎えに来た王子様の元に行って幸せに暮らせるはずだ。

 しかし、幼い紀枝でも、主が王子様でもなれけば助けてくれる者でもないのは分かっていた。

 主は、山人は……聖なるものではない。

 だけど、まともな思考など、紀枝はとっくの昔に失っている。

 正常な思考は母を亡くして真っ二つに割れ、彩が嫁いできて無数に砕かれ、父と祖父に見ないことにされて粉になり……その粉すらも母を殺したことで……どこかに消えてしまっていた。

 残っているのは、ここから逃げたいという思いだけだ。

 紀枝は右腕をのろのろと上げた。

 そして、銀の渦の中の種のような左目を取ろうとする。


「これを飲めばいいのね?」

『そうだ、手に取って……俺の片方を飲み込んでしまえ』

「……怖いことにはならないよね?」

「山の奥にしまわれるだけさ」

「しまわれる……」


 記憶の先端に火が灯り、紀枝は開いていた手を握り締めた。


『だが、あのほこらの奥には……山人がいてな。目を付けられなきゃいいけどもよ。里菜さん、美人さんだから』


『お前の母は、死者の国の遠くの遠く、とても暗い山奥にいるぞ。山の奥にしまいこまれているぞ』


 なぜか、祖父の言葉と主の言葉が、紀枝の頭の中で強く響き渡った。


(もし、山人に目を付けられたらどうなるんだろう……。お母さんをしまいこんだのは誰なんだろう……)


 心の奥で「左目を取るな、左目を飲むな」と警告が放たれる。

 なのに、この場から今すぐに逃げたい一心で紀枝は主の左目を掴んだ。

 手の平にいる石のように固い目を見つめ、……紀枝は飲み込もうとした。


「……それは、私が飲むわ」


 主の左目を握り絞め、紀枝は顔を上げた。

 氷の刃の中を血をほとばしらせながら進んでくる人影がある。

 それは未子だった。

 彼女の血にまみれた足を見て、紀枝は小さな悲鳴を上げ逃げるように頭を引っ込める。

 それ以上の動作が出来ないのは、動けば氷の刃に斬られるからだ。


「なんで……未子ちゃん……ここにいるの?」

「生と死の狭間はざまだから。私でも……まだ来られるの」

「まだ……? 未子ちゃんの言うことは、いつもわかんない」


 だけれど、なぜか叱られているような気持ちになって紀枝は俯いた。


「紀枝ちゃん。それ、私にちょうだい」

「……やだ」


 紀枝は咄嗟とっさにコートのポケットの中に左目をしまい込む。


『……紀枝、やめろ……のりえ……』


 急に主が押し黙り、紀枝は天を見上げた。

 そこに主はいるのかもしれないが、気配は感じられない。

 まさか、紀枝を置いていなくなったりしたのだろうか?

 焦って辺りを見渡そうとした時、コートのポケットの中で何かが指にあたった。


(これ……粗塩あらじおだ。まさか、これのせいで主が消えかかっているの。あ……これがあれば、未子ちゃんも消せるんだ!)


「――紀枝ちゃん、私の言うことが聞けないの?」

「なんで、未子ちゃんの言うことを聞かなきゃいけないの」

「私の方が年上だからだよ」


 たったそれだけのことで、なぜ、こうも強く言うのかわからない。


「紀枝ちゃんより早くお腹にいて、紀枝ちゃんより早く誕生するはずだったの。でも、早く死んじゃった……」

「そんな話信じない!」


 前に生きているって言っていたくせに、今は死んだ話をしている。

 やはり未子は信じられない……そう紀枝は思った。

 散々さんざん邪魔してきた未子と母を呼んでくれた主のどちらがいいのか考えれば、まだ主の方が助けてくれそうな気がした。

 紀枝は素早く右手を動かして、未子に向かって粗塩をいた。


「ぁあぁぁっ!」


 未子は千切れそうなほど叫んで、氷の刃の中で暴れ始めた。

 血飛沫が散り、紀枝の赤いコートを皿に赤に染めていく。


「未子ちゃんなんか、いなくなれっ。主の、左目は……わたしのもの……っ、絶対にわたさ……ない!」


 そして、コートのポケットの中に右手を入れる。

 中には主の左目が入っている。

 今の内に飲み込めば、未子からも痛い世界からも逃げられるはずだ。


「紀枝ちゃん……左目を私に渡したくないなら、せいのっで一緒に捨てよう」

「なんで、そんなこと……」

『そうだ、聞くな。そいつの話なんて聞くな!』


 紀枝が未子にたずねようとした時、豪風が氷の刃の中を駆け巡る。

 刃が欠けて、風の中に入り込んで幼い二人を包んだ。

 頬や眼の上や首、氷の刃が彼女たちの肌を躊躇いもなく傷つけていく。


『紀枝、早くしろ。早く、左目を飲めっ。塩のせいで……これ以上ここにはいられないっ』


 風の中から主の声がして、紀枝はポケットの中で右手を握り絞める。


「紀枝ちゃん、主が出なくなるようにするには犠牲ぎせいが必要なんだけど……。でも、もう……紀枝ちゃんも私もたないよ。捨てよう、そんなもの」

「だから、どうして……捨てなきゃいけないの……っ」

「紀枝ちゃんを守るためだよ」

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