最終章 闇の主と代替わりの秋2
しかし、こうして心を凍らすことで、彼女は生きていくためのバランスを保ち続けてもいた。
実来の心には、人への嫌悪が積もり積もっている。
それを心の
だから、生きて行けた。
話せない
なのに、最近、凍った心に
いつしか心の氷は無色から白になり、底部が怒りの赤に染まり始めている。
嫌悪感を頬張りすぎて、氷が変色してしまったのだ。
己の変化を感じる度に、実来は何かを破壊したいような、自分を破壊してみたいような
自分は姉を死に導いて生まれた存在だから、破壊された方がいい……と。
わたしなんて、死んでもいいんじゃナイのかな?
お祖父ちゃんだって、ほんとはわたしが邪魔なんでしょ?
死なないカナ? 死ねナイかな?
彼女の怒りの矛先は、愛情を与えてくれない者達ではなくて己に向けられていた。
どうして声が出せないのだろう。
どうして愛がもらえないのだろう。
なぜ、あの家はいつも寂しいのか……。
それらの原因を辿っていくと、自分しか浮かばない。
母に捨てられ、祖父の手を
自分さえ生まれていなかったら、あの灼熱の夏、父は刑務所で実来を
お前は、どこの野郎の子供だ――と。
俺の子供じゃないなら彩の所へ行け――と。
祖父は自分を育ててはくれているが、内心は家族か疑って暮らしているのだとも思う。
実来が声を出せないのは、心理的な影響だと医者が言っていた。
出せるはずの声を、祖父にさえ出せないのは、声を発したら
だから、実来には嫌悪を包む心の氷が必要だった。
だが、もうその氷が、駄目になりかけている。
他人に怒りをぶつける前に、自分に怒りをぶつけて死んでしまいたい。
『……み……らい、……実来よ』
草刈り鎌を投げ、死を意識してぼぉとしている実来の耳に、心地よい透き通った声が届いた。
誰の声なのだろう。
『実来、この裏庭が好きか……実来、もう辛くて死にたいか?』
語りかけてくる声が美しくて、祖父が祖母の命日に聴いていたメンデルスゾーンの《聞けぞかし、わが祈りを》という歌を思い出した。
聞こえてくる声は少年に近いが、歴史を刻んだような重みがある。
そう、本当に、あの歌の声のようだ。
《主よ、耳を傾け、我が祈りを聞いてください。
私の
私には導いてくれる者がいません》
あの曲は、こんな内容の歌詞だったはずだ。
レコードジャケットに刻まれた叫ぶような日本語訳を目にした時、実来は自分のことを歌っていると感じた。
神に向かって呼びかけても届かない歌詞は、聖書の一説から引用されたと祖父が話していた。
だから、聖書にはその後の救いが書かれているのかもしれない。
しかし、この歌は神への
『生きていても寂しいだけ、ずっと独りぼっちだ。だが、この裏庭にいるならば、おれがずっと側にいてやるよ』
声に耳を傾けながら、そっと細い首を動かして視線を裏庭に巡らせた。
『独りは嫌なんだろう、誰かに側にいて欲しいんだろう?』
草を刈る前に布巾で綺麗にした赤い
(……祠が、話している?)
『そうさ、おれは祠の中にいるのさ。この裏庭の
(――しゅ)
ふっと、主という字と朱という字を同時に思い出した。神が宿る祠の赤さが、その仲間の朱を連想させたのかもしれない。
実来は、恐る恐る足を動かして祠に近づいていった。
よく分からないけど、祠の中にいるなら聖なる者だろう。
神か、もしくは神の使いか……。
これはお
『この祠の扉をお開けよ。祠の扉を開けて、
きっとお札が駄目になったのだろうと実来は祠の前に屈み込み、空気孔がある木の扉を刈った草の匂いに包まれている両手で開けていく。
祠の中の大量のお札が、沸騰する湯のような音を立てながらぼこりぼこりと出てきた。
頭を下げて内部を覗くと、
(……枯れ葉が……掃除しないと)
『さわ、るな……触るなよ』
美しい声が、一滴の水分もなく干からびた汚い音になる。
その瞬間、実来は神の怒りに触れたような気がし、びくりとしてその場に尻を降ろした。祠から、実来の手で動かされた枯れ葉が砕けながら落ちてくる。
『これは、おれの眼球を守る衣だ。消えた肉と骨の代わりにおれを守る
(――肉も骨もないの?)
『おれに恨まれているのが怖いと、山に人が来ておれを殺した』
自分よりも苦しいだろうと、実来は祠の中に心配が凝縮した眼差しを向ける。
『村人達はおれを殺し、おれの力が宿っている右の眼球を持ち去った。だから祟ってやったら剥き出しのまま山に捨てやがったんだ』
(
実来は祠にいる何かを慰めたくて声を出そうとした。しかし、出せる声を彼女は持っていなかった。
『なあ、実来。おれが
再び美しい声を取り戻した主が、実来の心に話しかけてくる。
『おれは、お前が可哀想だと思うぞ。だから話しかけたんだ。おれと同じく、お前も独りぼっちで寂しいのが分かっているから』
この者は、自分を理解してくれるのだろうか?
思った途端に、目の前の祠にすがりつきたくなった。
孤独から助けてくれる者だとしたら、心身を
(わたしの辛い想いが、あなたに感じられる?)
『ああ、お前がどれほど自分を破壊してしまいたいか分かっている』
メモに書かなくても心の中を汲み取ってもらえる……。それを知って、実来の全身に喜びという熱が駆け回った。
(辛いよ。自分を殺してしまいたくなる)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます