第三章 暗闇の奥に引きずる者15
再び、主が訊ねてきた。
紀枝は汗まみれになった髪を
彩には見えなかった。
薄幸そうだがぱっちりと目鼻立ち、唇はいつも微笑んでいるかのよう。
ちゃんとお母さんに見える。
多分、これがお母さんだ。
「やった……お母さん……だ」
若い頃、父が
『呼ぶぞ、紀枝。今、お前の母を呼ばねば成功しない』
紀枝は
「主、お母さんを雪に呼んで。完璧にできたはずだからっ」
ひゅうっと口笛に似た高い風の音がして、祠から枯れ葉がふつりと出てくる。
『
ああ、と紀枝は声を漏らした。
(お母さんに会える。お母さんと一緒に死ねる。彩と離れられる)
紀枝は雪像に手を合わせて、母に来て欲しいと心の底から願い始める。
昨日よりも、できあがった
だから、昨日よりもきちんと母を呼べるはずだ。
「ぎャぁぁぁぁッ!」
突然、紀枝の後ろで
彩の声だと思った。
近くではない、少しばかり離れた場所から聞こえたようだった。
驚いて振り返ったが、そこにあるのは旧酒造と倉庫とその奥にある
母屋の二階の窓が少しだけ明るいように見えるが、人影などない。
(彩なんて、どうなったってかまわない)
彼女は水滴を落とす前髪を手で
枝先で描いた髪が、ゆるりゆるりと動き、風に吹かれて毛先が乱れ始めていた。
雪像の白くて硬い唇が、軽く
すると、描いていないはずの薄い
長く描いた
細く作ったはずの身体は、やや焦げた肌色になった
ビニールシートで生魚のようにバタバタと動く腕、その手の指にはガラスのストーンでデコレートされた長い爪が生えていた。
母ではない。
これじゃあ、母になっていない。
雪像の姿は、厚化粧の……。
(――彩……彩だ)
紀枝は腰を抜かし、腕の力だけで尻を擦りながら後ずさりした。
ずりりとスカートがめくれ、下着が濡れて肌にくっつく。
死んでいないはずの彩の魂が、なぜ雪像に呼ばれたのか。
「……ノ、りぇぇぇ」
寝る時も化粧を落とさない真っ赤な彩の唇が、紀枝を呼びながら薄笑いを浮かべた。
「ノリェェェ!」
紀枝は、名を呼ばれて更に後ろに下がる。
「あんた、さっき、あたしを殺したワねぇぇ」
殺してなどいない。殺したいと思ったけれど、殺してない。
彩は下に敷かれたビニールを爪で破りながら起き上がって、己の腹をまさぐり始めた。
「ここに、赤ちゃんが宿ったから、あんた殺したんでしょぅっ」
「違う、そんな……」
だから、生きているはずの彩の魂が、主の力でもぎ取られて雪像に宿ってしまったのだろうか。
「――憎い」
彩が、はぁぁはぁぁと全身を使って荒い呼吸をしながら紀枝を
闇の中なのに、充血した目がぐりりと動くのが見えた。
「殺してやる」
紀枝は悲鳴を喉の中で潰し、
「……主、ねぇ主……雪像を元に戻して」
紀枝は腰を抜かしながらも腕の力で、徐々に彩から離れ、祠の方へ、助けてくれる主の元へと移動しようとした。
「主、ねぇっ主!」
いつもなら返ってくるはずの声がない。
まさか、
だが、彩は消えない。
彼女は雪像に戻らず、両脚にぐいっと力を入れ、ビニールシートを波形に歪ませて立ち上がる。
そして紀枝が使っていた、太く先端が尖っている枝を手にした。
「……殺したね、あたしを、とうとう殺したね」
アイラインが引かれた目の中、中心がない黒い瞳が雪山の後ろに隠れようとする紀枝を捕らえた。
「いつか、ヤるんじゃないかって思ってたよ。アンタ、あたしのこと大嫌いだもんね」
大嫌いなんて一度も言ってない――と叫び返す暇すらなかった。
「あたしも、あんたが大嫌いさ。だから殺してやるよ! 死ねよ!」
大嫌いだけども怖さの方が先に来て、いつだって言いなりになってきた。
かといって、また言いなりになって殺されたくない。
もたもたと座ったまま雪の中を進む紀枝の首に、彩が
ダクリ。
枝は動き回る紀枝の首の皮を擦り、V字の先端は深い雪に飲み込まれる。
「逃げるな、殺されろ!」
彩は素早く枝を抜き出し、這い蹲って祠へ逃げる紀枝に迫る。
「来ないでっ、ヤダ、来ないで!!」
ざくんっと赤いコートの上に枝が振り下ろされ、背に激痛が走る。
しかし、厚手のコートであることとぶかぶかだったことが幸いした。
枝が背に刺さった瞬間、布地の上で枝先が動いて紀枝の身体から落ちた。コートがなかったら、確実に背に突き刺さっていた。
「……ぅっく」
紀枝は痛みを堪えながら
木の枝に積もっていた雪が、彩と紀枝の間に降り落ちて白い幕となる。
その隙に、紀枝は走った。主が完全に寝てしまう前に起こして、この彩を消してもらいたい。
殺されたくない、殺されたくない。
自分で死ぬのは良いけれど、殺されたくはない。
「主、主、まだ眠らないで!」
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