第三章 暗闇の奥に引きずる者16

 ほこらの中をのぞくと、倒れた札の奥で朱赤の瞳が鈍く光っていた。まだ主の意識はある。


あやを、早く、昨日のように消して!」


 祠の奥で主が笑うような声を出す。


『……どうせ、死ぬつもりだったのだろう、此処ここで』


 思ってもみなかった言葉が、主から返ってきた。


『それに、もう、魂を戻す力は残っていない。単におれの目が開いているだけさ』

「じゃあ、どうしたらいいのっ」


 しかし、紀枝の耳に彩の雪踏む音が入る。


「どうしたらいいのぉぉっ!」


 答えを待っていられない、逃げないと殺される。

 紀枝は温かさが消えていく雪を踏み蹴散らし、ゼェゼェハァハァ言いながら母屋の方へ走っていく。

 だが、彩の動きの方が紀枝の数倍も早い。

 紀枝が、母屋に向かう細道に入る前に、彩が紀枝の影を踏んだ。


「シネったら、死ねよ!」


 彩が、庭に地獄の穴を開けるように大枝を振り下ろす。

 紀枝は飛んで逃げようとして、高い塀の前の生け垣に衝突しょうとつする。

 コートのベルトが毛細血管もうさいけっかんのような小枝にからみ取られ、紀枝は必死になってベルトを引っ張る。

 リボン結びが解けた時、彩が紀枝の脇腹を刺しに来る。

 枝はスカートのウエストの布が重なった場所にどぉっと当たった。

 

「ぐぅっぅっ」


 鈍い痛みが胃まで到達とうたつするが、苦しんでいられない。

 涙をこぼしながら紀枝は、祠の前で右へ左へと転がって、彩の攻撃をかわした。

 そうしている内に、彩が簡単に自分を殺そうとしていないのに気がつく。

 恐ろしい義理の母は、赤い唇の両端をぴんと上げてわらっていた。

 死から逃げまどう紀枝の姿に、今まで以上の愉悦ゆえつを感じているようだった。

 恐怖の遊びに翻弄ほんろうされる紀枝に、祠の主が清らかで美しい声を放って寄こす。


『朝まで待てば、その雪像せつぞうから魂が抜けるだろう……お前は失敗したんだ。お前は一日目の時に素直に死ねばよかったんだ……おれを好きになって死ねばよかったんだ』

 主の声が陰惨いんさんな響きをともなって裏庭で舞う。


(朝になれば……っ)


 しかし、まだ空は、墨汁ぼくじゅうで塗りつぶしたように真っ暗だ。

 あと、何時間ぐらい粘れば助かるのだろう。


 彩が双眼に喜びを浮かばせ、歯を食いしばりすぎて震えている紀枝を見下ろしている。


「や、やられたり……しないっ」


 紀枝は、その場にあった雪を握りしめて彩の顔にぶつけ、そして瞬間的に顔を背けた彼女の足を蹴り飛ばす。

 彩が大きな尻で生け垣を潰すと同時に、紀枝は立って走った。

 逃げるしかない。

 逃げなければ――だけど、どうやったら逃げ切れる?

 裏庭の主の力が無くなるのが朝ならば、朝を待つしか他がない。

 しかし、それまで逃げ続けられるのだろうか。

 自分から死ぬのはいいけれど、彩に殺されるのは納得できない。

 

(――あっ)


 その時、紀枝は助かる方法を一つ見いだした。


(主の力で彩に襲われてるんだから……裏庭を出れば……)


 主の力は裏庭でしか成り立たない。ならば、此処ここから出れば助かりそうだ。


(裏庭から出よう!)


 紀枝は降り積もった雪の中、大股で進んでいく。


(急げ、急げ、急がないと!)


 裏庭から出る方法は三つある。

 高い塀を越えるか、建物の中に入るか、通路となっている倉庫と旧酒造の隙間を通るかだ。


(塀は無理、家には鍵、だから……こっち!)


 後ろから迫り来る彩から逃げるため、紀枝は雪山の横を通って旧酒造きゅうしゅぞうに向かう。

 雪よりはかすんで見える白き壁に両腕を伸ばし、息を切らせて走る。


「こっち来い、子供は母親の言う事聞くもんだろぉっ!」


 母親だなんて思ったことない癖に、彩がそう言って紀枝を止めようとする。

 止めるという事は、恐らく紀枝の判断が間違ってないからだ。


「紀枝、こっち来い。こっちだ、こっちにこぉい、こぉぉいッ」


 彩は奇声混じりの声を発し、寝癖で跳ねた茶色の髪を宙に広がらせ、重い足音を立てながら接近する。

 このままでは追いつかれる。

 追いつかれたら、紀枝はお仕舞いだ。

 彩は普通の人とは常識の感覚が違う。

 だから、きっと迷わず紀枝を殺すだろう。

 彩の中の不可思議な正義によって、紀枝は殺されるのだ。


(旧酒造の隙間まで行けないッ。……なら、なら……お祖父ちゃんにっ)


 紀枝は、いつも祖父が顔を出して声を掛けてくれる旧酒造の扉に手を付き、何度も彩を確認しながら扉の取っ手を引く。

 この時間なら、もしかしたら祖父が此処にいるかもしれなかった。


「おじいちゃ……おじぃ、おじぃっ」


 恐怖と焦りが喉の奥で混ざり合い、声がちゃんと出せない。


「ここ、あけて……あけ……おねがいっ」


 扉はカタリコトリと揺れはするが、開かなかった。

 鍵が掛けられている……いいや、紀枝の救急車騒動のためか錠前じょうまえが外れたままだ。

 なのに、開かない。

 なぜ――?


(これも主の力だ……。主は味方してくれてない……っ)


 しゅッと風切る音がし、紀枝はその場にしゃがんだ。

 

 ダァン!


 流れ落ちていく彼女の黒髪を、大枝が貫く。

 枝は漆喰しっくいの壁に小さなひびを入れ、白い粉末を飛ばした。

 その所為せいで枝の先端が少しだけ丸くなり、彩がチッと舌打ちする。


「お祖父ちゃんっ、たす……けて!」

「おかあさぁぁぁんって泣いてた次は、おじいちゃぁぁぁぁんて泣くんだ?」


 彩は頭を押さえて震える紀枝のコートのすそを踏み、鼻に細かいしわを寄せてにらめ付けてきた。


「人を呼んで泣いたって、だーれも助けに来ないさ」

「わたしっ、あんたなんか呼んでないのに……っ」

「呼んだじゃないか。彩殺す彩殺すって念じてたじゃないのさ。毎日毎日念じたから、こうやって出てきたのさ」


 彩の言葉に紀枝は、低い嗚咽を漏らす。

 確かに、そんな風に日々を過ごしてきた。


「死にたくない……」


 熱くなったまなこから、ぼたぼたと涙が零れて頬に付いた雪を溶かす。


「主、助けて……イヤだ、こんな風に死ぬのは嫌」


 紀枝の懇願こんがんを主は叶えない。

 彩は喉を鳴らして愉悦ゆえつに浸り、大枝の先端にまとわりつく木の皮を歯で噛むと、キィィィと剥いだ。

 すると先端は、きりのように鋭く尖った。


「これで白い肌をえぐり取ってやる。肌に穴ぁ開けて、肉き回してやる。あんたの母さんにやれなかったこと、全部ヤッってやるさ」

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