第三章 暗闇の奥に引きずる者13

「ただいま」

『はやく、此処においで、此処で遊べ』


 紀枝のりえは積もった雪を越え、裏門から入り、酒造の広大な敷地の中に入り込む。

 吹雪によって雪明かりにすら頼れない中、勘だけで旧酒造きゅうしゅぞうの方に歩いていった。

 白い固まりとなった垣根にぶつかり、雪の埋もれた花壇かだん煉瓦れんがに足を取られ、頭から積もった雪をぼたぼたと落としながら、紀枝は両腕を突き出して、北側へ裏庭へ、細い足を進ませる。

 スカートからき出しになっている両脚は、裏庭に近づくと熱を持ち始めた。

 あの、雪を温かなものに変える主の力が、また身体を包み込んでいくのが分かる。


「来たよ、主。わたし、遊びに来たよ」


 旧酒蔵と倉庫の隙間から、紀枝は裏庭に呼びかけた。


『おれと、遊ぼう。朝までな。お前が望む者の魂を雪像せつぞうに入れよう、朝までならな』


 裏庭に出ると、昨夜のように銀の枯れ葉が飛び交い、雪の山がこんもりと盛り上がってきた。

 山は蒸気のような白いものを放ち、その白いものは狂い降る雪をなだめていく。


『さぁ、紀枝、お前が求める者をこの雪で作れ。おれが呼びかけただけでは、人の魂は入らぬよ。死した人の魂は、おれらより一層も二層も別の場所にいるからな』

「それって天国?」

『さぁな。おれが知っているのは――おれが死したと同時に、見た光景だけさ。死んだ人の界、死んだ動物の界、死んだ虫の界、死んだ植物の界、そして……おれはどこにも行けないから裏庭にとどまった。女がいるから留まってやったのさ。そうさ、一人でいるのが嫌だったのさ』


(――妖怪だから、死んじゃっても受け入れられなかったの?)


 それは聞かずに、紀枝は別の質問をする。


「じゃあ、お母さんは一層も二層も違うところにいて、そこからここに引っ張ってくればいいのね?」

「ああ、でも……まだ少しばかり近い場所にいるかもな」


 いつもとは違うこももった声で主が呟いた。


「どうして?」

「お前の母親は、なかなか死者の国に行かなかったからな」

成仏じょうぶつしてなかったの?」


 テレビで聞いた言葉を口にすると、主がヒッヒッヒッと笑った。


『時間が無いぞ、紀枝。こんなこと話してたら日付が変わるぞ』


 主に言われて、紀枝はハッとする。

 早くしないと神無月かんなづきの期間が終わってしまうのだ。


「ごめんなさい、でも……一つだけ教えて」

『なんだ?』

「主は、わたしの味方だよね」

『そうだ』


 紀枝はその言葉でホッとしてみたかった。

 だが、なぜか疑問がふっふっと浮かぶ。


(お祖母ちゃんも、お母さんも、そして今、わたしも……神無月に死んでしまう)


 その点について聞いてしまいたかったが、それを深くり下げていったら嫌われてしまう気がする。

 触れてはいけないと思ってしまうのだった。

 紀枝が自分の事情を他の者に話せないように、主も話したくないのだ。

 だから、山人やまびとだとも何とも言わず『主』としか答えないのだろう。


『お前とおれは似ているよ。だから、力を貸してやる。楽しく、此処ここで死ぬ力をだ』


 此処で、という主の声がいつものように透き通ってひびかなかった。

 落ちて砂利じゃりの上を転がった後のバニラアイスのように、砂と小石にまみれてざらざらと汚れている感じがした。

 自分と主が似ているなら、主も綺麗きれいであるはずがない……そう、紀枝は思った。

 タクシーで普通の少女を演じた自分のように、ここで主を語る彼は本来の姿ではないのかもしれない。

 だが、それでも、構わない。


(主はお母さんを呼んでくれる……わたしを温かい雪で殺してくれる……。主は、善の妖怪だから)


『時間がないぞ、紀枝。早く作れ』


 紀枝は元気よく頷いた。

 昨日、此処で奇跡きせきを観たのだ。死んだ者がよみがえる奇跡を。


「そうだよ、お母さんを作らなきゃ」


 自分を迎えに来てくれる、抱きしめてくれる母を早く作らないと、誰かに邪魔じゃまをされてしまうだろう。

 紀枝は、ふっと裏庭から母屋おもやの方を見た。

 なんとなく彩が紀枝をバカにしながら見ているような気がしたのだ。

 母屋の台所の方には明かりが灯っていた。

 そちらの方から何か香ばしい匂いが流れてくるので、彩が何かを作っているのだろう。

 彩は深夜に何かを作ってむさぼり食う時がある。

 しかし、台所の窓には人影がなく、こちらを見ている様子はなかった。


 紀枝は一度倉庫の方に戻ると、まきを包んでいる青いビニールシートのロープをほどき始めた。

 昨日、寝たままの母の首の後ろに手を入れると、痛がって叫んだ。

 それは地の雪と身体が密着していたからだ。

 愛犬のきりのように人の魂は簡単に雪にもらない……となると完璧に近い雪像というのは地と密着せずに離れていなければならない。


「だから、……これを下に広げて」


 言いながら、雪山の前にビニールシートを広げて敷いた。

 雪像の下にシートがあれば、母を起こす時に痛がったりしないはずだ。

 紀枝は雪山の前に座り、両手で雪を掻き集めてシートの上に降ろしていく。

 そして、母を思い出しながら、寝ている姿の母を丁寧ていねいに形取っていった。

 雪を集め雪を固め、華奢きゃしゃなのにがっしりと紀枝を抱きかかえてくれる母を再現していく。


(順調だ……大丈夫、絶対に大丈夫っ)


 このまま進めば、何事もなく母を呼べそうだ。

 昨日の失敗はシートのお陰で起きないだろうし、ちゃんと母に抱き締めてもらえる。

 紀枝は息弾ませながら爪の先で雪を掘る。

 だが、幼い紀枝の爪は柔らかくて、次第に細かなひびが入って割れ始めていった。

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