はるかな夜の物語

第三章 暗闇の奥に引きずる者１０

　軽い怒りで濁（にご）った声が紀枝の口から漏（も）れる。

　すると、運転手はチラッと紀枝を見てから「大丈夫、大丈夫だよ」と朗（ほが）らかな声をかけてきた。

「近道は出来なそうだから、大通りから行こう」

「大通りからの方が早く着くの？」

「バスが通る道なんかは除雪車が来るからね」

「……じゃあ、大通りから帰る」

「そうだね。そうしようね」

　穏（おだ）やかな声で返答され続けたからか、紀枝の胸に広がった粘（ねば）り気のある怒りがカリカリに乾きながら縮小（しゅくしょう）していく。

　彼女はどれくらい雪が積もっているのかと、車の窓に額を付けて外を確認した。

　どこかの子供が作った雪だるまが、こんもりとした綿雪（わたゆき）の中に埋（う）もれていて切（せつ）なそうな顔をしている。

　その後ろのカーポートは、白と灰の層を成す積雪（せきせつ）で少しだけ傾（かたむ）いているようにも見えた。

「すごい雪！　こっちに来たら、すごい雪だよ」

　自分のことを知らない相手という気軽さから、紀枝は普通の子供のように運転手に話しかけた。

「そうだね。ちょっと街から出ただけで、こんなに積もってる」

「……わたし、あとで裏庭で雪遊びをするの」

「そっかぁ。それはいいね。子供は外でいっぱい遊んで、いっぱい知恵を付けていくものさ」

「知恵を……？」

「小さな世界にばかりいると、周りが見えなくなるんだよ。だから、外で遊ぶのはとってもいいんだよね」

「そうなんだぁ」

（おじさんは、幸せに生きていた人なんだね）

　だけど、それが一番傍（そば）にいて欲しい存在だ。

　あの狂った世界の中にいた紀枝にとって、まともな人はとても貴重でありがたい。

「……あのね、さっき幽霊を見たと思うの」

「病院で？」

「家の前でも見たことがある……でも、さっきは病院にいた」

　変な子と思われるのが怖かったが、口に出すことで不安を消したかった。

「そっかぁ、そりゃ怖いな……」

「うん、だけど……怖いけど幽霊には勝たなきゃ」

　運転手は道を曲がって、信号に入ってから紀枝の方を見る。

「幽霊に勝つなら、塩しかないな」

「お塩？　白いお塩？」

「塩って霊が怖がるって言うだろ」

「……どうして怖がるの？」

「葬式（そうしき）帰りに身体に塩をかけたりするのは、塩が霊を祓（はら）うからだって話だけど」

　運転手の話を聞いて、母の葬式が終わった後を思い出す。

　地獄（じごく）のような日々の中で忘れかけていた死の不幸――その葬儀（そうぎ）の後に祖父が塩を入れた皿を紀枝に差し出した。

『これで、身を清（きよ）めるんだぞ』

『……うん』

　なんでこんなことをするのか分からないまま、小さな指で塩を摘まんでパラパラと身にかけた。

　その後、口にも入れて水ですすいで吐き出した……。

　しかし祖父は、それだけでは満足せず、紀枝の髪にも背にも念入りに塩をかけていったのだった。

（あれは、お祓いをしていたんだ）

「家に入るまでが怖いかい？」

「え？」

「だって、家の前にも幽霊がいたんだろ？」

「うん……」

「んじゃあ、ちょっと待ってな。今、信号で止まるから……」

　運転手は黄色の信号の前でタクシーを止まらせてから、助手席に置いていたカバンに手を突っ込んだ。

　ガサガサとバッグの中を探ってから、小さな紙包みを取り出す。

「これ、粗塩」

　運転手が包みを紀枝に差し出してきた。

　紀枝はそれを手の平で受け止めて、じっと見つめる。

「あらじお？」

「ああ、天然の塩だよ。神棚に上げる為に買ってたんだけど、ゆで卵にこの塩かけると美味くてねぇ。弁当用に持ち歩いてんだ」

「神様にあげる用……」

「そう、うちのお稲荷（いなり）様にね」

　紀枝の頭の中に、裏庭の小さな祠（ほこら）が生々しく浮かび上がった。

　母が綺麗（きれい）に掃除をして水や菓子をお供えしていた祠――夏の蒸し暑い中でも、そこだけは少しだけ温度が低くて、ひとつまみぐらいの畏怖（いふ）の念を子供の紀枝にも抱かせた。

　あの中にいるのが山人だから、祈（いの）らなければならないような気持ちを抱かせるのだろうか？

　それとも一緒に奉られている稲荷大神の力なのだろうか……。

（祈っている時は、すこしだけ救われたような気がするんたけどな）

　母も毎日祠に手を合わせていた。そんな風になったのは、山人に感謝していたからだろうか。

　だけど、記憶の中の祖父はそのことをあまりよく思っていなかったようだった。

　――頭の中で『主』のことを考えれば考えるほど、心が落ち着かなくなっていく。

　紀枝は足を少し伸ばして大きいサイズのブーツを座席の前でブラブラさせ、赤いコートの袖を指の先で引っ張ったり、タートルネックの首元を顎（あご）まで上げたりしていった。

　それでも心の隅で固まり始めた疑念（ぎねん）が消えていかない。

『それは、祠（ほこら）に稲荷大神（いなりおおかみ）をも奉（まつ）っているからだろうけどな。だが、あの祠の奥には……山人（やまびと）がいてな。目を付けられなきゃいいけどもよ。里菜（りな）さん、美人さんだから』

　夢で思い出した祖父の言葉が、もう一度ハッキリと蘇ってくる。

（もし、お母さんが山人に目を付けられたら……。もし、わたしのように死ぬのを誘われてしまったら……）