第三章 暗闇の奥に引きずる者9

「俺、あの病院から何百人もの人をあっちへこっちへと乗せてったけどさ、みんなろくにご飯を食べてない顔をしているんだよね。患者に引きずられたように、みんなげっそりとやつれてさ。お嬢ちゃんも、そういう顔しているよ。うん。お嬢ちゃん、色々と疲れたんだろうね。いっぱいお食べ、そんでね、元気におなりよ」


 どこか枠通りな看護師の言葉よりも、タクシーの運転手の言葉の方が、紀枝のいびつになった心に食い込んできた。

 思わずにじんできた熱い涙を、赤いコートのすそでごしごしと擦りつけて消し去る。

 泣いてしまったら、死への決意が消えてしまいそうだ。

 このタクシーの運転手は、助けてくれる人ではない。

ただ、あの裏庭に紀枝を連れて行ってくれるだけの人だ。

 助けてくれるのは、裏庭の主だけだ。


「……山人やまびとの、主」


 決意が乱れないように、紀枝は祖父の言葉と主の存在を重ねて声にした。

 すると、運転手が「ほぉ」と感心したような声を上げて、バックミラー越しから紀枝の方を見てきた。

 眼鏡を掛けた、おだやかな老教師のような人だった。


「山人なんて、古い言葉を知っているね」

「違う……知らないよ。でも、言葉だけ知っているの」


 紀枝は、果汁で濡れた口を手の甲で拭く。

 すると運転手がティッシュの箱を紀枝の方に差し向けた。

 紀枝はティッシュを数枚とって、手や口を綺麗きれいにする。


「山人って、なんですか?」

「大昔に、ここ辺りにいた山に住んでいる妖怪の呼び名さ。人を助けたり、人に災いをもたらしたり、善なのか悪なのか、さっぱり分からない存在さ」

「大昔って、どれくらい昔?」

「鎌倉か安土桃山時代辺りかな? とっても昔の話だよ。まあ、俺もそんなにくわしくは分からないけどね、親父が民俗学みんぞくがくに夢中だったもんでさ、ちょいっと知っているだけさ」


 紀枝は拭ったティッシュを丁寧ていねいに畳んでポケットにしまってから、また唇を開いた。


「山人って目玉の形なの?」


 ほこらの奥に見えた朱赤しゅせきの眼球を思い出して、彼女はたずねた。


「へっ、眼球? いやぁ、そんな話は聞いてないなぁ」


 からからと運転手は笑ってから、車のダッシュボードの物入れから円柱の容器を取り出して、紀枝にふたを開けてみせる。


「ほら、のど飴舐めな」

「あ、ありがとう……」


 素直に紀枝はキューブ型の飴を一つもらって、ぺこりとおじきをした。

 なんだかこの人は、彩が来る前の頑固がんこだが明るい祖父を思い出させる。

 飴を口に入れると、ミントと果物の味が少しだけ舌を刺激した。

 この味に覚えがある。母が喉に効くのよと言って舐めていた飴だった。


「ああ、そうか。山人と眼球は関係があるかもなぁ」


 容器を元の場所に戻してから、運転手が鼠色ねずみいろのハンドルを回していく。

 白いタクシーはカーブを曲がって、運河の上の短い橋を渡っていった。


「あそこの鉱山に住んでいた山人は、片目って話があったよ。妖怪とかってさ、一本足だったり、片目だったり、何かを失っている姿で現されることが多いって親父が言ってたなぁ。有名なのだと、一本だたらとかさ。あの妖怪は、片目片足だろ?」

「……えっと」

「ああ、ごめん知らないか。今の子供はゲームに夢中か。俺の時代じゃ、水木しげるの妖怪漫画とか妖怪画集とかが取り合いになっていたけどなぁ」


 善なのか悪なのか分からない妖怪。

 ならば、きっと裏庭の主は善の方だ。

 紀枝は病院から持ち出したメモ帳を開き、ボールペンで文字を刻んでいく。


【お祖父ちゃんへ。わたしは山人さんに助けてもらって死にます。もう彩といるのが辛いです】


 メモを残すのは、彩に対する悪意からだった。

 自分が死した後、このメモを見て親戚か誰かが彼女を責めればいい、と紀枝は思ったのだ。


(みんなに責められて、彩がおかしくなればいい。お腹の子と一緒に酒造から出て行けっ)


 紀枝がぐはずだった酒造に、彩の子なんて必要ない。

 だから彩も、彩の子もいなくなればすっきりする。


 キィガチャ、キィガチャ、キッコンキッコン。


 タクシーのワイパーが、ガラスに白い点描を始めた雪を行ったり来たりしながら消し去る。

 それでも雪の軍隊は道路を見えなくしようと踏ん張り、何度でもガラスに着陸してくる。

 ワイパーと雪の戦いを眺めながら、紀枝はそっと手を合わせた。

 

(――綺麗な雪が沢山、裏庭にも降っていますように)


 紀枝が望むのは、純白の白い雪だ。

 色白の母を再現できる、美しい雪を心の底からう。

 汚らしい泥にまみれた茶色の雪は、母にふさわしくない。

 あんな雪じゃ、母は紀枝の元に降りてきてくれない。


「ここら辺り除雪じょせつされてないねぇ」


 運転手が困ったような声を上げた。

 紀枝は手を降ろし、ぎょろりと目玉を動かして運転席に視線を向けた。


「時間がかかるの?」


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