第三章 暗闇の奥に引きずる者7

 肝心かんじんな部分は自分の靴音が高すぎて聞き取れない。

 でも、聞いたら絶対に怖くなるから聞かないでおこうと紀枝は先を急いだ。


(彩の方が、彩の方が怖い、彩はわたしの心を傷つける)


(彩は怖いしひどいし、そして残酷ざんこくだ)


(彩はキツい洗剤を使わせて、わたしの皮膚もボロボロにするし、暖かな布団を奪って死ぬか死なないかのスリルまで楽しんでる)



 それに比べて、未子は追い掛けてくるだけだ。

 血の気が失せた顔で、じめっと濡れた声を出して……まとわりついてくるだけだ。


「紀枝ちゃん、紀枝ちゃんは……」

「もう何も言わないでぇぇっ」


 階段を駆け下りて、一階のフロアに降り立つ。


「わたしに付いてこないで。あんたなんて大嫌い!」


 紀枝は叫びながら、緑色に点灯する非常口の表示を探した。

 廊下の奥に非常口がある。

 恐怖が心を覆って身体が強ばり、足も重くてなかなか上手く歩けない。

 紀枝は空気をぐように両手を動かしながら、前へ前へと脚を進ませた。


「――紀枝ちゃん、帰ったら……死んじゃうよ」

「本気で大嫌いっ」


 回すタイプのロックを外してドアを開けると、びゅぉぉぉぉっと強い風が紀枝の腹を押した。

 紀枝はさっと外に出てドアを閉める。

 それから、ドアの金網が入ったガラス越しに廊下の方を見た。


(未子ちゃん、いなくなってる……よかった)


 階段を駆け下りてきてから息が荒い。

 生暖なまあたたかい息は、氷点下になっている外気に触れると白い煙に姿を変える。

 紀枝は蹌踉よろめきながらドアから離れて、病院の救急外来の方に歩いて行った。

 そこにタクシー乗り場があることを、入院していた母の付き添いをしていた紀枝は知っている。


 アーチ型の屋根がかけられたタクシー乗り場に、明るい黄色のタクシーが一台だけ停まっていた。

 紀枝は早足でタクシーに近づき、車の窓から運転手席を見た。

 コンコンと紀枝は、雪がまだらに付着した窓を叩く。

 運転手は片手にパンを持って、もう片手に缶コーヒーをもった姿で紀枝の方を見た。

 すぐにガチャッと音がして、タクシーの後ろのドアが開いた。


「お嬢ちゃんだけかい?」

「はい、母は入院中なんです」


 簡単な嘘をつくと、運転手は眉間に皺を寄せた。


「可哀想に、大変だったね」


 短かったがぬくもりがある声で言われて、紀枝は少しだけ運転手から目を逸らせた。

 だますことに気が引けてしまいそうだった。


「寒いだろう、早く乗って。今日は随分ずいぶんと冷えた日だからね」

「……ですね」


 小さく答えてからタクシーの中に乗り込む。

 ふんわりとした暖かい空気が、外の凍てついた空気を紀枝の身体からがした。

 タクシーのドアが閉まり、紀枝は大きく息をついてシートに身を埋める。


 コンコン。


 窓を叩く音がして、紀枝は閉じかけたまぶたを一気に上げた。

 看護師かと思ったが、違う。

 窓の外に姿は無い。


 コンコン。


 紀枝の横のドアのガラスは、雪で半分見えなくなっていた。

 その白い一面に、何かがぴちゃっと触れる。

 それは、濡れた小さな手だった。


(未子ちゃんだ……)


 紀枝は背もたれから身体を離して、タクシーの運転手に言う。


「早くタクシーを出してください」

「ちょっと待ってね。パンとかしまうから」

「早く帰りたいんです」

「……はい、これでよしっと」

「で、行き先はどこだっけ?」

「川の向こうの方です。その……葉山酒造はやましゅぞうって分かりますか?」

「ああ、葉山酒造ね。俺、あそこの酒大好きなんだよね」


 やっと、タクシーが雪を押しつぶす音を立てながら動き出した。

 紀枝は胸に手を当てながら、そっとドアのガラスを見た。

 指紋しもんの流れすら分かるほど、ぴったりと白い指がくっついている。

 それがタクシーが動くと共に、横に濡れたラインを描いていった。


 つぅーーーーーーーーーーー。


 ぞわっと強い寒気がして、紀枝は両目を骨張ほねばった手でふさいだ。

 どう考えても、未子は人間じゃない。

 いや、正常な状態だったら出会った時に気が付いたのだろう。

 せこけた身体、冬でも汚らしいタンクトップに汚いショートパンツ……紀枝よりひどい状態の彼女が生きていけるはずなど無い。


(じゃあ、わたしがもらっていた……あのクッキーとかはなんなの?)

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