第三章 暗闇の奥に引きずる者6

 真後ろから聞き慣れた声がして、紀枝は驚いて振り返る。

 汚れたタンクトップを着た未子みこが、下り階段の前に立っている。


「ど、どうして……ここに?」


 上擦った声でたずねると、未子は青ざめた唇を開いた。


「酒造の人に聞いたの。この病院に入院してるって」

「……そうなんだ」


 納得なっとくしようとするが、寒気を伴う疑問がき上がってくる。


(おかしいよね……未子ちゃんに交通費なんてあるわけないし)


 彼女は、どうやって病院に来たのだろう。

 北風狂う中、タンクトップ姿で歩いてきたとでもいうのだろうか?

 紀枝は恐る恐る未子の足を見た。

 

(足があるから……幽霊じゃない?)


 確信が持てないのは、未子のき物が紀枝のブーツよりもブカブカの薄汚れたピンクのローファーだからだ。

 今まで、足元になんか注目してなかったが、未子の靴は磨けばピカピカになりそうなエナメルだった。

 ローファーの甲の真ん中に、どこかで見たことがあるマークが付いていた。


(あのマーク、なんだったっけ?)


 幸せを呼ぶという四つ葉のマークだったが、そういう意味の見覚えがあるではなかった。

 同じようなマークをどこかで見たことがある……ような気がする。


「紀枝ちゃん、あのね」

 

 どこか湿っぽい声で未子が話しかけてくる。

 紀枝が足元から未子の顔に視線を移すと、彼女は唇の左側だけ上げて笑ったような顔を作った。


「いそいで、病室に戻ろうよ」

「……それは、やだ」

「看護師さんが戻ってきたら、大騒ぎになるよ」

「……いいの。わたしは、家に戻りたいんだから」


(そういえば、未子ちゃんは……わたしが病室を抜け出して階段にいるのをどうやって知ったの?)


 そこまで考えて、紀枝はふっと思い出す。

 いつもいつもいつも、見つけて話しかけてくるのは未子の方だ。

 紀枝から彼女を見つけて話しかけた事なんてない。

 道路にふっと出た時や、学校の帰り道や、居場所を求めて公園に行った時――どこからか未子が現れて話しかけてくるのだ。


「紀枝ちゃん」

「……な、に?」


 膨れ上がる恐怖を足で踏み殺して、紀枝は未子を見た。

 未子の目の周りは、食べていないせいかくぼんで黒ずんでいる。

 血の気が無い唇は紫色で、死化粧しげしょうをする前の母の遺体を思い出させた。


「紀枝ちゃん、ダメなんだよ」

「……なにが?」

「病室にいなきゃダメだよ」

「どうして?」

「主の元には、私がいくから……紀枝ちゃんはここで元気になって」


(――主の元に、未子ちゃんが……)


 その一言で、恐怖が完全に霧散むさんした。

 紀枝は人間かどうかも分からなくなった友人を睨み付ける。


「そういうこと言うんだ」

「紀枝ちゃん、私は紀枝ちゃんに幸せになって欲しいんだよ」

「彩がいるのに、幸せになれるわけない!」


 大きな声が口から飛び出すと、ナースステーションの方で看護師達が話し出す声がする。


(このままじゃ見つかってしまう!)


 看護師達のサンダルの音が聞こえ始めた。

 紀枝は未子を無視して、走って階段を降りていく。


 急いで急いで、速く速く。

 見つかったら――また彩という存在と向かい合わなくてはいけない。

 それなら、死んだ方が楽に決まっている。

 疑問も感じずに、紀枝は「楽」だと思い込む。


「……だめだよ」


 走っているはずなのに、耳元で未子の声がする。

 ひゅーひゅーと冷えた呼吸の音まで聞こえてきて、紀枝は両手で耳をふさいだ。

 しかし、手の平を無視して未子の声が体内にするりと入り込んでくる。


「裏庭には……私が行く……」


 彼女の声の周りに濡れたものが動くような、びしょびしょという音が重なっている。


「紀枝ちゃんじゃなくて……私が行くよ」


 冷えた雫のようなものが紀枝の首に触れ、紀枝はヒィッと声を出しながらも言い返す。


「いやだ、あそこにはわたしが行くっ」

「死んじゃうよ、ねぇ、死んじゃうよ」

「死ぬのがいいのっ」

「そんなのよくないに決まってるよ。だって死んだら…………だよ」

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