第三章 暗闇の底に引きずる者5

 押し殺した声を発してから、紀枝は合皮のバッグに病院の服やらスリッパやらをめた。

 そしてそれを布団の中に入れて、自分が丸まって寝ているように細工をする。


 今まで恐怖で追いやられていた知能が、死を前にして鋭利えいりに働き出していた。


 元々、紀枝という少女はこういう才覚を持っていた。

 営業に長けていた母と同じ性格だったのか、急場きゅうばでも立ち回りが上手な子供だった。

 しかし、彩は彼女のそういった面をこざかしく感じ、恐怖によって母ゆずりの才覚も容姿も削り取っていったのだった。


 それを紀枝が察したのは、彩が来て間もなくだった。


 しかし、毎日毎日、みぞれのように恐怖が降り積もり、かたみしめられた雪のようになると、その自覚すら底部に閉じこめられ、心がゆがみ、思考はよどみ、反抗も抵抗もできなくなっていったのだ。


「行こう、脱出だ」


 病室を出る前に、もう一度、紀枝は洗面台の鏡でおのれの姿を確認した。

 赤いコートを着た黒髪で色白の紀枝は、若い頃の母の写真に似ていた。

 黒髪でなければフランス人形のようだと叔母に褒められていたことを、紀枝は思い出した。

 だが、今の紀枝を見ても叔母は同じ言葉を言わないだろう。


(わかってる……もう、わたしは可愛いとは思われない)


 心の中に醜い感情を抱いているから、可愛いなんて思わせる雰囲気が消えている――そんな風に紀枝は思っていた。 

 洗面台の明かりを消してから、テレビ台に置かれているボールペン付きのメモ帳を手にする。

 これで、彩のせいで死んだと書く遺書を残せるだろうか……? 

 それをコートのポケットの蜜柑みかんの横に無理矢理に入れてから、彼女は静かに部屋を抜け出した。


***********



 廊下に看護師はいなかったが、鋭角斜えいかくななめ前にナースステーションがある。

 そこでは二人の看護師がクスクス笑いながら談笑していた。

 紀枝はなるべく身を屈めてナースステーションとは反対の方に向かって歩いて行く。

 急いで、だが音をさせずに……ぶかぶかのブーツを気にしながらも速く速く進んだ。

 女子トイレを見つけて、一旦そこに身を潜めると、はぁはぁと息を吐く。

 それから、逃亡犯のように鋭い目つきで廊下の左右を確認した。


(誰もいない。――よしっ)


 飛び出そうとした瞬間、ナースステーションの方で音がする。

 紀枝はびくっとしてトイレに戻ると、壁に背をくっつけて廊下の方に耳を澄ました。


「307号室の子、また発作かしら?」

「今日、三度目だよね」

「ちょっと行ってくるわ」


 カウンターから看護師が一人出てくる。

 紀枝の病室にも来た優しい看護師だった。

 彼女の白いサンダルの底が、ぱたんぱたんと廊下を軽く叩いていく。

 その音が次第に近づいて来て、トイレの前で止まった。


(……っ)


 見つかったら病室に戻される。

 きっと、また薬か何かを打たれて眠りに落とされるだろう。

 もう、寝ている時間など無い。

 紀枝が心地よく深い眠りにつきたかったのは、随分ずいぶんと過去の話だ。


 夢の世界にずるりと入り込んでも、彩に叱られるか馬鹿にされるか罵詈雑言ばりぞうごんを浴びせられるかだった。


 だから、母が出てくるような夢を見たいと望んでいた。

 だけれど、夢の中にも母は出てこない。

 出てきたとしても棺桶かんおけに入った死体の姿だった。

 動かなくなった……哀しい姿の母に会いたくない。

 紀枝を抱きしてめくれる母に会いたいのだ。


(主はお母さんをちゃんと呼べる。またお母さんに会いたいよ!)


 緊張きんちょうからぎゅっと目を閉じて、看護師の方に耳を澄ましていく。


「やだ、家から電話が来てる……」


 看護師の小さな呟きが聞こえた。


「今日は帰れないのに……」


 その声を聞きながら、この人には子供がいるのかもと紀枝は思う。

 自分が抜け出したら騒ぎになって、この優しい人は家に帰られなくなるだろうか?

 ふっと思って、紀枝は目に込めた力を抜いた。


(看護師さんの電話が、たいへんな電話じゃありませんように)


 紀枝は他人のために祈った。

 優しい人には優しい家族がいるだろうから、みんな幸せになって欲しい。

 真剣に祈っていると、看護師のサンダルの音がまた始まった。

 パタパタパタ……と、足早に廊下を進んでいくのが分かる。


(――行ってくれた)


 こっそりと廊下に顔を出して看護師が去って行った方を見ると、もう人の姿は無い。

 紀枝は赤いコートをひるがえしながら、階段の方に進んだ。

 エレベーターだと逃げ場がないので、階段の方が良いと判断したのだ。


(よかった、階段には誰もいない……)


 肩の力を軽く抜いて、紀枝は階段をゆっくりと降りていった。

 本当は走って降りたかったが、大きなブーツが脱げかかったりしたら転びそうな気がしたのだ。


「――紀枝ちゃん」

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