第二章 主が呼び出す死者の道5

 ここに、この裏庭に、お母さんを呼び出せる。


(ああ、まだ死にたくない)


 このまま死にたくない。

 死ぬ前に、お母さんに会いたい。

 お母さんと一緒に雪の上に寝そべって、抱きしめられながらでられながら死にたい。

 あの、優しい一時を一度でいいから、本当に一度だけでいいから、手に入れたい。

 

 欲しい、欲しい。愛情が欲しい。


 死ぬ前に、お母さんの声を聞きたい。

 お母さんを手に入れたい。


「しゅ、しゅ……さん……」


 こみ上げてくる感情に耐えきれなくなって、紀枝の声は嗚咽おえつにまみれていた。


『なんだ?』

「お母さんも、呼んでいい?」


 主は答えなかった。

 何かを考えているのか黙り込んだまま……その時間は瞬きほどのものだったかもしれないが、紀枝にはとても長い時間に感じられた。


『……そっくりに作ることができたら、人のたましいも呼べるかもしれぬな』

「そっくりに?」

『動物と違って人の魂を呼ぶのは、とても難しい。だから、その者の生前せいぜんの姿と同じにできるならば、完全に同じではないとはいえ、お前が心血しんけつを注いで似ているように作り出せれば――可能かもしれない』


 できるんだ……と思った途端とたんに、絶望に堕ちていた紀枝の心は、現実にい上がってきた。

 あの優しい母を、ここに呼び出すことができるかもしれないのだ。


『しかし、呼べたとしても。元はただの雪。気温が高くなれば溶けるし、殴られれば壊れる。それでもいいのか?』

「どうせ死ぬなら、お母さんに抱かれて死にたい」

『お前の母は、死者の国の遠くの遠く、とても暗い山奥にいるぞ。山の奥にしまわれているぞ。そこから連れ出すことがどれだけ難しいか分かるか?』

 

 紀枝は起き上がって、射貫いぬくような視線をほこらに向ける。


「お母さんと、何かお話をしながら、なんでもいいからお話ししながら、一緒に寝て死にたいの。お母さんに会いたいの。お母さんに、会いたいよっ」


 喘息ぜんそくの子供のようにゼィゼイしながら必死に言うと、主は密やかな溜息を吐いた。


『いいだろう……。紀枝、本気で呼ぶなら上手く作れ。上手くできなければ、恐らくなにかを失うぞ』


 もう死ぬのだから、何かを失っても怖くない。

 それに、失えるものなど紀枝には残っていない。

 あるのは、彩に与えられたせんべい布団と自分で買った安い文房具だけ……。


「じゃあ、うまく作る。わたし、お母さんのことを忘れていないから作れるよ」



 毎日毎日、彩と比べて思い出しているから、と紀枝は心の中で小さく付け足した。

 何かを察したのか、きりが紀枝を止めるように「くぅぅ」と小さくうなる。

 振り返ると、桐は心配そうな顔をして紀枝の顔を覗き込んできた。


「桐も、お母さんが来たら嬉しいでしょ。ね?」


 愛犬の頭を両手でむしゃむしゃと撫でると、桐は手に顔を擦りつけてくる。


「桐も力を貸して。きっと、きっと、お母さんがここに来るよ」


 長年忘れ去っていた希望の火を胸に宿して、紀枝は行動を開始した。

 猛吹雪になってきたが、冷えが暖かさとなる身では痛みすら感じない。

 むしろ身体が火照ほてって、あまりの暑さにのぼせそうになっていく。


 紀枝は雪山から、人の身体分の雪を運び出す。

 もっとりと醜くれた両手で、き集め抱き上げ、どんどんと平たい場所に置いていく。


 まず、二本足で立った姿を作り出すのは無理だ。

 それは子供の紀枝にだって分かる。


 だから寝ている母の姿を、丁寧ていねいに綺麗に指や木の枝で彫って手で押してみが磨いていこう。


「お母さん、ここに来て」

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