第二章 主が呼び出す死者の道4

 それでも紀枝のりえには、このうさぎが生きているようにしか見えなかった。

 足にり寄ってくるうさぎにそっと手を差し伸べると、あの暖かな雪のせいなのかぬくもりも感じられた。

 柔らかい毛が指に絡みつき、紀枝は喉を鳴らして笑うと兎を抱き上げてほおずりする。


「これ、わたしが作ったの?」

『そうだよ、それはお前が作った、お前の兎だ』


 自分のものでいいんだ……と思った瞬間に心がゆるんで涙があふれ出す。

 あやは紀枝から全てを奪っていった。

 子供部屋は畳にダニがわいてアレルギーになるからとうばわれ、大きなストーブは子供は風の子だからと奪われ、大事だった兎のぬいぐるみは気がついたら無くなっていて、可愛い服や小物は「今から色気づいて気味が悪い」とののられて自主的に捨てるように言われ、母の持ち物は目障りだからと全部捨てられ、位牌いはい遺影いえいは母の実家に返されて、何もかもが無くなってしまった。


 母の思い出として残ったのは、祖父の部屋の本棚に放置されていたシンデレラの本だけだった。


「わたしの、兎」


 紀枝は兎を胸に抱きしめた。

 優しいぬくもりが心臓に伝わり、紀枝はほっと息を吐く。

 安らいで心地よくて、ずっとこのままでいたいと思う。


『次は犬だ』


 まるで舞踏会に行く準備をさせるように、主の指示が飛んできた。


「犬も?」

『お前、犬を飼っていただろう。秋田犬を』


 兎は小さいから作られるけれど、秋田犬はとても大きい。


(……作れるかな?)


 紀枝は三年前の記憶を掘り起こし、立ち上がると自分の背丈を軽く超えてしまう秋田犬を思い出す。

 あれは紀枝が生まれた日に、番犬用として父がもらってきた犬だ。

 四本足で立っている姿は難しいので、座った姿を思い出しながら紀枝は雪像を作っていった。


 あの犬は凜々りりしい顔立ちをしていた。

 近所で火事が起きる日や、台風で倉庫に被害が起きる日などは吠えて知らせてきたりして、いつも家族を守ってくれた。


 雪を山から何度も取り何度も取り、重ねて重ねて胴体を作る。

 そして頭部のための雪を乗せていく。

 しかし、鼻の突き出している部分が上手く作れずに崩れてしまう。


『これを、使え』


 ザンッと痛みをともなうような音がして、ほこらの横の紅葉の枝が折れた。

 紀枝は頷いて枝を掴み、細かい粘土細工ねんどざいくを作る時のようにその枝を胴体の首に刺し、そこに雪を両手で押し付けていって鼻の長い頭にした。

 指先でそっとそっと撫でながら形を整えていくと、三年前まで紀枝の側にいた優しい愛犬の姿になっていく。


「あ、思い出した。この子はきりちゃんだ」


 愛犬の名すら忘れていたことに愕然がくぜんとしながら、紀枝はたくましくて穏やかだった桐を指と手の平で作り出す。

 小枝で目を入れ、鼻を付けて、長い口を描き出す。

 巻き尾を雪で作って付け、手足の部分を彫ったり描いたりしていくと、幼い時、母がいた時に、紀枝の遊び相手だった桐が完成した。


『では、この犬も、桐も呼び寄せよう』


 桐と言われて、紀枝は黒い瞳の奥に羨望せんぼうの輝きを宿す。

 桐がよみがえることなんて可能なのだろうか?

 あの桐が、家で紀枝と遊んでいた桐が、紀枝を見守っていてくれた桐が、ここに来る?


 再び、上空で高い音が鳴り、雪にまみれた旋風せんぷうが雪像の周りを巡る。

 すると、白い鼻が黒く染まり、その外側から明るい茶の冬毛が生え始め、丸まった尾が動きだし、左前足が雪を掻き、線で描いた目がゆっくりと開いて秋田犬の三角形の黒い目を見せる。

 他の足も動き始め、桐は頭を振って関係のない雪を落とすと、尾を振り回しながら紀枝の元にやってきた。


「……きり?」


 呼びかけると、桐はぽんっと前足を上げて紀枝の肩に乗せ、顔をぺろりと舐めた。


 本物の、桐だ。


 紀枝は桐を抱きしめて、そのままゆるゆると膝をついて泣きじゃくった。

 死んでしまったこの子まで、呼び出すことができた。


 忘れ去っていた暖かい日々がよみがえり、大きな声を出してはいけないのに喉をしびれさせるほど強い泣き声が歯をこじ開けた。

 誰かに気づかれてしまったら、この奇跡が終わってしまう。

 紀枝は必死に緩んでしまう歯を食いしばり、泣き声をかみ殺す。

 子供にしてはせている赤くなった頬を濡れたセーターの袖で拭いて、心配してクゥクゥと鳴いている桐の首や頭を撫でてやる。

 そういえば桐が亡くなった日に、お母さんがこう言っていた。


『きっと桐は、うちの誰かが亡くなったら迎えに来てくれるわね。そういう子だもの』


 死した魚のようなうつろな目を焼却炉から出てきて骨となった桐に注ぎ、暗い声で呟いたのだ。

その数ヶ月後に、母が心筋梗塞しんきんこうそくでこの世を去ることなんて当時の紀枝は感づきもしなかった。


「桐、わたしのこと迎えに来てくれたんだね。ねずみの馬がひく馬車じゃなくて、桐の背に乗って行けるんだね」


 言うと桐は答えるように、紀枝の頬をめる。

 紀枝はきゃっきゃと喜んで、雪の上に寝そべった。

 最初に作った兎がやってきて紀枝を温めるように横にくっついて座る。

 その逆の脇腹に桐がくっついて座る。


 このまま、眠っていったら――天国に行けるのだろうか。

 

(喜んだまま死ねるなんて嬉しいな)


 そんな想いが心に湧き上がった時に、ある疑問が浮かび上がった。


(わたしが好きに雪像を作っても、主が死んだものの魂を宿してくれるのかな?)


 考えた瞬間に、どうしても作りたい人が心臓を跳ね上がらせて胸を揺さぶった。


(お母さん……。――お母さんを呼び出せる)


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