第二章 主が呼び出す死者の道1

 夜の十時になり、朝が早い家族達の声は途切れたが、義母の彩は音がないと不安で眠れないというややこしい病にかかっているために、付けっぱなしになっているテレビからお笑い芸人達の力んだ声が聞こえてくる。


『あの女は、夜になると誰かの声が聞こえるって言うんだよ』


 祖父が呆れたように、そう言っていた。

 普段なら、テレビのけたたましい声が不眠をあおっていたが、今日は紀枝を助けてくれる。

 紀枝は、テレビの声に合わせながら、ギシリ、ギシン、と古い木の階段を下りて、息を潜めながら北側にある裏口に向かった。

 玄関の引き戸から出れば、雪と金属の擦れる音や、山から来る風の音で、誰かが目を覚ますと思ったのだ。


(かまぼこ一切れしか食べてないから、お腹が空いた……)


 タバコの匂いが残る台所に入って、コーヒー用の角砂糖をこっそり盗んで口に放り込むと、紀枝は冷蔵庫の横の戸を開けて、曾祖母の代から全く変わっていない倉庫に入っていった。


 土倉なので、台所よりほのかに暖かい。

 

 祖父が使っている黒い長靴に足を入れて、紀枝は死を前にしているというのに安堵あんどした。

 祖父の長靴の中には毛がぎゅっときつまっていて、紀枝の内履うちばきとは履き心地が全然違う。

 その大きな長靴をゆっくりじっくりと少しずつ動かしながら、彼女は土倉にある裏口から母屋の庭へ向かった。


 解体せずに放置されている古い酒樽さかだるの横を通り、日本庭園に入ると、木々はわらで囲まれて雪支度がされ、氷が張った池ではこいがジッとうずくまっている――かもしれない。

 見えないけれど、毎年毎年、こんな寒い季節がやってくるというのに、春になると彼らは生き生きと動き出す。


 紀枝は手入れをされた庭を横切り、雪帽子ゆきぼうしをかぶった垣根を手で避けて、酒蔵と倉庫の隙間に足を踏み入れた。

 思っていたより雪が積もっていて、長靴の半分が白の内部に埋もれる。


「ふかり、ふかり」


 紀枝は小さな声を上げて、己の足に伝わる雪と長靴のファーの状態を現した。


 なんだろう、こんなに楽しく感じたのは生まれて初めてではないだろうか?


 母がいた時も、とっても楽しかったけれど、家には得体えたいの知れぬ暗い影があって時々窮屈きゅうくつに感じていた。

 こんなにも心が弾んだのは、北海道に住む叔母の結婚式で、花柄のレースがあしらわれたドレスを着てベールガールを務めたとき以来だ。


 いいや、違う、それよりも、今の自分は幸福感に満たされている。

 死ぬのはなんて楽しいことだろう。


「ふかりと、ふかり。ふかりに、ふかり」


 二つの大きな建物の隙間を通り抜け、紀枝は約束の裏庭にたどり着いた。

 しかし、彼女を殺してくれそうな相手はいない。


「……、わたし、一人?」


 あの時、誰かが呼んでくれたはずなのに、ここで独りぼっちで死んでしまうのなんて嫌だった。

 あの綺麗な声の者が、自分を救ってくれるはずだったのに。


(誰もいない。魔法使いなんていない)


 紀枝は頭を垂らしてから、ぼさぼさの髪を掻きむしった。


「嘘、吐かれた。嘘、また、嘘の嘘」


 紀枝の頭は、瞬時に怒りの方に舵を取る。


 酒造一家は嘘吐きだ。

 母は父をかばう嘘を吐き、祖父はいつか彩が紀枝を好きになってくれると嘘を吐き、父は「俺は彩の言うなりになっていない」と蔵人くろうどや営業や経理という従業員に嘘を吐き、彩はいつもあんな感じだ。


 心臓の位置から真っ黒な想いが湧き上がり、紀枝は「はぁぁぁ」と息を吐いた。

 そして、その場に蹲って綿雪わたゆきの中に顔を埋めようとした。

 

 いいや、いいや、もういいよ。

 わたしがわたしを独りで殺すから!

 

 紀枝は裏庭の雪に拳を叩き付けた。さらさらの粉雪が四方に散る。

 

 ああ、自分を殺してやる。

 自分一人で死んでやる。

 死んでやるったら、死んでやる!


 心の中で叫びながら、幾度も拳を叩き付ける。


(……あぁ、でも自分で自分を殺したら、天国には行けないんだ)


 ふっと、そう思った時……


「紀枝ちゃんも呼ばれたの?」


 紀枝の耳に、未子みこの声がつっと触れた。

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