第一章 童話は彼女を救えない6

 淀んだ闇ばかり溜まった心に、ザガリと絶望ぜつぼうという名の銀色の刃物が突き刺さった。


 えて耐えてきた紀枝の中で、もう、なにもかもいいやという思いが芽生え出す。


(死んだって、いいや……)


 紀枝の絶望が見て取れたのか、彩はクククと喉を鳴らして笑い出した。

 そして彼女は、ウエストを作るために食い込ませた太いベルトを撫でてから、紀枝の耳元に口を寄せた。


「あたしねぇ、赤ちゃんができたみたいなのよ」


 ふっふっと彼女の生暖かい鼻息が、冷えた耳たぶに触れる。


「ここの家さぁ、あんたしか子供がいなかったけど、あたしの赤ちゃんが生まれたらさぁ。あんたって生きてる意味があるの? 後継あとつぎは、あたしの赤ちゃんがなるんだろうし」


 ――赤ちゃんができた。義理の姉妹が出来る……。

 ――そして、生きている意味がない……。


 彩の毒は、絶望を宿した紀枝の奥まで浸透しんとうし、身も心もただれさせていく。

 足に力が入らなくなって、紀枝はその場に薄い尻を付いた。

 廊下の杉板が、あっという間に彼女の体温をうばい去る。


(後継ぎは、お祖父ちゃんの酒蔵に入るのは、わたしじゃない)


 呪文のように、己を切り刻むように、紀枝はその想いを頭の中で何度も再生させた。

 彩は薄ら笑いを浮かべながら、今度はゆっくりと音も立てずに階段を下りていく。

 冷気によって首の上まで鳥肌が立っていくが、もう寒くなるのは怖くない。

 こんな風に生きていかなくてはいけないなら、死んだ方がマシだった。

 死んだら負けだと思っていたが、生きていても負けている。


「もう、ダメなんだ……」


 誰か、わたしを殺してくれないかな。

 誰も殺してくれないなら、病気になって死ねばいいのに……。

 死ナナイかな? 死ねないカナ?


 紀枝は負けたと思った瞬間に、心の中の闇の底を掘り出して、死神を探し始めた。

 こんな冬だから、こんな風になってしまうのだ。

 いいや、こんな冬だからこそ――自分をあざむく考えが突風に吹き飛ばされて真実があらわになるのだ。


(……寒い)


 何もかもが凍っている。

 もしかしたら、家の中でも凍死できるんじゃないだろうか?


(凍死? 凍死? 凍死!)


 思いついた「凍死」という方法は、堕ちるところまで堕ちた彼女の心を一瞬で占拠した。

 ――その時だった。


『……遊べよ……夜においでよ。裏庭は、とってもとっても楽しいぞ』


 二週間前、古い酒蔵の裏庭で聞いた声が、紀枝の背後から静かに忍び寄る。


『紀枝、今夜、おいでよ。そんなに死にたいなら、寒くてもかまわんだろう?』


 紀枝は、正しい答えを見つけたように喉を鳴らして振り返った。


(これは、魔法使いの声だ)


 北に向かって真っ直ぐ伸びているみがき抜かれた総杉そうすぎの廊下、その奥にはガラス格子の大きな窓がある。

 そこから、あの裏庭を覗くことができる。

 旧酒蔵から祖父が顔を出す、彩が来ない小さな裏庭が見える。


「わたしの、裏庭……」


 足に力が入らないから、四つん這いになって膝を床に擦りつけながら進んでいった。


「裏庭、わたしの、裏庭……」


 あそこだけが、救ってくれる場所だ。

 あそこだけが、楽になれる場所だ。

 あそこに、魔法使いがいる。


 なんとか窓まで辿り着くと、紀枝は窓縁を掴み、木にキリっと爪を立てて、やせ細った上半身を起こした。

 なぜか、その薄いガラスにはまったく雪が付着していなかった。

 旧酒蔵と倉庫の隙間から、吹雪に犯されていく真っ白な裏庭が見える。


『夜にさ、此処ここにおいでよ。どうせなら、楽しく死のうよ』


 ガラスの向こうから、何者かが誘ってくる。

 紀枝は瞬きもせずに裏庭をじぃっと見つめてから、何年も遠くに追い払われていた明るい笑顔を取り戻した。


「うん、行くよ、夜に行くよ」


 誰だか分からない者に、紀枝は楽しそうに答えた。

 クックック、くっくっくっと喉が鳴る。


 今まで、誰も救ってなどくれなかった。

 しかし、その得体えたいの知れない者は死ぬ手伝いをしてくれるのだ。

 シンデレラに魔法使いが来たように、自分の元にもやってきた。

 初めて、誰かが自分を助けてくれる。

 助け出してくれる。

 楽になれる。

 やっと、やっと!


 彼女は小さな笑い声を上げてから、指がれた両手で顔をおおって泣きじゃくった。

 楽しい夜が、さくさくと雪踏む音を立てながら始まろうとしていた。

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