危機一髪を乗り越えた髪の毛だけでミサンガを編んだ話
久々原仁介
危機一髪を乗り越えた髪の毛だけでミサンガを編んだ話
危機一髪だった! という人の話を聞くのが好きだ。
愛していると言ってもいい。
もともとスリリングな体験談とかエッセイとか、そういう眉唾もののテレビ番組や特集雑誌を見るのが趣味だった。むしろそこから本が好きになった。気付けば、この世の中のヒヤリハット事案を探すのが僕の生きがいになっていた。
僕はありとあらゆる刺激的なエピソードを求めた。まるで自分自身がその危機に直面しているかのような錯覚を覚える瞬間。強いエクスタシーを覚えた。この世に存在するかもしれない危機が追体験として僕に流れ込んでくる感覚が好きだった。
僕が危機迫る体験談をもっと欲しいと思うようになるのは自然なことだった。それと同時に麻薬的な衝動でもあった。僕は当然のようにより強い刺激を求めた。
夜な夜な、駅前にある立ち飲み居酒屋などに行って、見知らぬ人に声をかけた。事情を話すと、誰もが笑い、こいつは変な奴だと面白がってくれた。
僕はその居酒屋で、あらゆる人の危機的な体験談を聞いた。最初はなかなか人が捕まらない日もあったが、雨の日も風の日も雪の日も足繫く通った。すると、その居酒屋で現れる変人記者としてちょっとした噂になり、話しかけてくれる客も増えていった。
結果的に、実体験を直接聞くというやり方は正解だった。テレビや本などのフィルターを介さない言葉は、僕をよりスリリングな世界へと没入させた。
誰もが人生で一度くらいは「今のは危なかった」と思うことはあるらしいということを知った。それをまるで武勇伝のように語るような人もいれば、遠慮がちにおずおずと話し始める人もいる。歌うように、あるいはすすり泣くように恐怖を訴える人もいた。
男性だから、女性だから、そんな話は詰まらない。けれど強いて言うなら、男性は仕事の話が多い印象を受ける。自分のミスで会社に損害を与えそうになった話とか、営業先でトラブルを起こしてしまった話とか。自分のミスが起因して起こる社会的なダメージを「危機」と判断することが多い。
逆に女性は、人間関係に起因するエピソードが多かった。意外にも、そこにはセクシャルな体験が数多く見受けられた。友達の彼氏とのセックスや、職場での不倫。性的な出来事をタブー視する傾向が、彼女らの心のどこかにはあるのかもしれない。そして彼女らは話し終わった後には「絶対に秘密ですから」と、付け加える。
ありとあらゆる危機的なエピソードを聞いていると、いつの間にか3年が過ぎていた。
3年もあれば、色々な体験談を聞く。もちろん、その中にも外れと当たりがある。この話は噓くさいな、盛っているなと思えば僕の中では外れだ。
例え奇想天外な話ではなくとも、身の毛がよだつような没入感を与えてくる人もいる。そういうのは当たりだ。内容はもちろんのことだが、そういう人は手を引いていくような独特な語り口調をする。そんなときは、僕だけではなく周りの客までもが先が気になってビールジョッキを運ぶ手が止まって聞き入っている。
なかでも「危機一髪」という体験談は貴重だ。
髪の毛一本が自分の命を繋ぎ止めたのかもしれない。そんなエピソードに辿り着いた瞬間などは、至上の悦びを感じる。
同時に、身体ではなく心が先に冷や汗をかくような感覚に襲われる。それは僕にとって感情処理の追いつかない感動だった。
「危機一髪を経験した人たち」を、僕は昔読んだギャグ漫画になぞらえて「デンジャラス・ヒューマン」と呼称した。
僕はこの世のどこかにいるデンジャラス・ヒューマンを求めて居酒屋を渡り歩いた。しかし一筋縄ではいかない。時の運もあるだろうし、至高の「危機一髪」に出会う頻度もまちまちであった。
それでも僕は諦めなかった。しかしそれは、再び刺激に飢え始めている予感がしていたからでもある。テレビや本が飽きてしまったように、次はこのインタビューにも飽きてしまうのではないかと怖かったのだ。
飽きないために人がすることとはなんだろう。
そんなことが頭の奥を重たくさせる時間が一週間ほど続いたある日、僕はとある女性に出会った。
出会った場所は、行きつけの居酒屋ではなかった。なんとなく飲み足りなくて、でも帰るのももったいないと考えていたときに立ち寄ったショット・バーだった。
客は、僕ら二人だけだったと言いたいところだが、入店したときは盛況だった。満席というわけではないが、それなりに席もそれなりに埋まっていた。
どこに座ろうかと考えているとき、カウンター席に座る彼女を見つけた。
彼女は眼鏡をかけた童顔の女性だった。ロングの黒髪は、まとめられてはいないものの、不思議と乱れたりせずに礼儀正しく真っ直ぐに床へ伸びている。どことなく、理知的で冷たい印象を受けた。
無数の酒瓶が棚に並んでいる空間だというのに、彼女はまるで教室の席に座るようにそこにいた。僕もまた彼女に倣って教室のドア開けるようにして、席に着いた。
「おはよう」
僕が、いたずらっぽくそんなことを言うと、彼女は一瞬驚いたような顔をしてからニヤリと笑った。
「あら、おはよう」
声はしっとりとしていた。お酒は何杯目なのだろう。僕はすぐに、カウンターでグラスを拭いていたマスターに、度数が強めのカクテルを頼んだ。
「夜はこんなにも暗いのに、学生さんはお家へ帰る頃合いじゃないですか?」
「ふふ、ご心配ありがとうございます。でもご心配には及びませんよ」
「失礼なことを訊きますが、おいくつでしょう?」
「あは、いくつに見えます?」
「正直に言いますと、高校生に見えます」
「今年で27歳ですよ」
「なんと」
僕より一つ年上であった。目の前にいる彼女は、よくて二十歳前後にしか見えなかった。「大変失礼いたしました」と頭を下げると「いつものことです」と笑って許してくれた。
「わたし、深雪と申します」
グラスを撫でていた指を僕に向ける。
「そういう貴方は噂の記者さん?」
「どの噂かは知らないけれど、碌な噂じゃなさそうだね」
「危機一髪を集めてる変態だって聞きました」
「あながち間違いじゃない」
「変態さんなんですか?」
「そんじょそこらの変態と一緒にしてもらっちゃ困りますよ」
「あら、それは失敬」
「危機一髪をこよなく愛する由緒正しい変態です」
「変態じゃないですか」
彼女はコロコロと笑った。僕も届いたカクテルに口をつける。
ひとしきり笑った後に、彼女はレンズ越しに僕を見据えた
「わたし、貴方を探していたんです」
「ほう、僕を?」
「そう、貴方を」
深雪さんは幼い顔立ちからは想像がつかないほど蠱惑的な笑みを浮かべた。
「危険なお話、お好きなんでしょう?」
そして彼女はおとぎ話のように語り始めた。
彼女の語った「危機一髪」はドラマチックでありながら爽やかで、ほんの最後に苦味を残すような見事な「危機一髪」だった。見事だ、素晴らしい、感動した。僕の心の中はスタンディングオベーション。彼女は間違いなく本物のデンジャラス・ヒューマンだった。
詳細は省くが話はこうだ。
深雪さんは高校二年生のとき、自殺を図った。それなりに友人もいて、優しい両親のもとで育てられた普通の高校生だった彼女は目指すべき夢などもなく、ただただ流れゆく学生生活に静かに絶望していたのだ。
彼女は駅のホームで眠るように線路のホームに飛び込んだ。
しかし彼女は死ななかった。
当たりどころがよかったのか、それとも医者の処置がよかったのか彼女は重症を負ったものの、命を落とすことはなかった。危険は確かに彼女の身体に触れたが、命までは届かなかったのだ。
「思うんですよね、私たち髪の毛一本分の違う世界に生きてるんじゃないかって」
彼女は神妙な面持ちで話した。
「本当は危機一髪では済まなかったわたしと、危機一髪で済んだわたしがあの日を境に二人いるように考えるときがある。ここはわたしが生きていた世界とよく似ているだけの別世界なんじゃないかって」
そんな馬鹿な。とは、笑えなかった。
「危機一髪」を経験した人の中にも、しばらく放心状態で、自分が危機を脱したと思えないまま数日を過ごすなんていうのも珍しくない。
そんな虚脱状態が数年間続いているとしたら、これから先も続くとしたら、考えるだけでも恐ろしい。
「わたしは、貴方がもしかすると元の世界に戻り方を知ってるかもしれないと思って探してたの。だからわたしがしたかったのは危機一髪の話じゃなくてそのあとの話ですね」
僕はどういう顔をしてるだろうか。単純に、彼女の期待を裏切ってしまったことへの、罪悪感があった。
「残念だけど、僕は不思議の国への案内人じゃない。そんなものがあるなら、自分で行ってみたいとは思うけどね」
「ふふ、そうみたいですね」
深雪さんは自分の髪の毛を一本摘むと、ぷつんと切って僕の薬指に結んだ。
「じゃあ、あなたも世界に行けるように、おまじない」
僕らはもう二度と会えないかもしれないね。みたいな、この世の偶然が産んだ愛おしい時間に感謝をするように、僕らは同じ名前のカクテルを飲んで別れた。僕は彼女を置いて店を出ていた。彼女はしばらく飲むと言っていた。その背中がほんの少し、悲しそうに丸まっていた。
僕はそれからデンジャラス・ヒューマンに出会った際には髪の毛を一本もらうようになった。まるでスタンラリーのように。
僕はどんな人の話にも熱心に相槌をうち、その恐怖に共感を示すようになった。髪の毛は、まるで僕の成果物のように思えた。すると、その人から別の知人を紹介してくれ、その人もまた別の人を紹介してくれた。段々と「デンジャラス・ヒューマン」との接触回数は増えていき、それに付随する形で「危機一髪」を乗り越えた髪の毛も増えていった。
そして326本の髪の毛が集まったとき、ふとまた深雪さんのいたショット・バーに訪れていた。もちろんそこに彼女はいない。
僕はまるで彼女を追いかけるように髪の毛一本分違う世界に行きたいと思うようになった。
だからと言って電車に飛び込もうとも思えなかった。映画好きの人間が必ずしも映画を作ろうとはしないように。
僕は326本の髪の毛を編んでミサンガを作ることにした。
僕は髪の毛を一本一本束ねていく。それは祈りのうな時間にさえ感じた。よくよく触ると髪の毛は太さも長さも質感も違った。それはまるで一人一人の人生が異なるように、僕はその一本一本に語りかけていく。
今日も僕は危機一髪を乗り越えた髪の毛でミサンガを編んでいる。
髪の毛一本分違う世界に生きていると彼女は言った。
でもそれは少しズレた言葉だ。
人の髪の毛は一本だけじゃない。
真っ直ぐ伸びる日もあれば、湿気でウェーブする日もある。幾重にも折り重なってできている。
これから先、このミサンガは伸びていくだろうと思う。
いずれこのミサンガに偶然にも自分の髪が加わるようなこともあるのだろうかと思いながら、僕は再び夜の居酒屋へと向かった。
危機一髪を乗り越えた髪の毛だけでミサンガを編んだ話 久々原仁介 @nekutai
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