1-2:世界に羽ばたく一歩
生まれ変わったレミア
この世界で初めてケーキを焼けて大満足のレミア。
来てくれたロティとオロンをお見送りしようとして、ハッと気づく。
門の所までのこのこ出ていくわけにはいかない。
「別に見送りなどいらん。姿を消して出ていくだけだ」
「ありがとうございます、お二人とも。
それじゃあ、また明日ロティさんの所にお伺いしますね!」
ぺこりとお辞儀するレミアに、ロティは目だけで応じてそのまま姿を消す。
「じゃあ僕は、お店を開いた頃にまたお邪魔しようかな。
これからも頑張ってね」
「はい、頑張ります!」
オロンはロティと違ってとても友好的だ。
優しい声援に、レミアは笑顔で答える。
彼もにっこり微笑み返すと、ロティと同じように姿を消した。
部屋の中がしんと静まり返る。二人が本当に去ったのか分からず、レミアはしばらくそわそわと部屋の中や入口を見回した。
日が暮れてきていることに気づき、厨房から借りた材料と道具を片付け始める。
「えへへ、ケーキ……ケーキが焼けちゃった。
今日はいい夢が見られそう……!」
◆ ◆ ◆
その日、レミアは前世と今世の境目にいた時の記憶を夢に見た。
かつて、光の差さない場所で彼女は目を覚ました。
水の中にいるような、ふわふわした感覚。
起きたばかりのまとまらない思考のまま、首を左右に振る。
「……は、……のか」
どこかから、くぐもった男性の声が聞こえてきた。
「やりたいことは、ないのか」
やりたいこと……?
彼女は怪訝そうに真っ暗な世界を見渡す。
やはり、声の主はどこにも見当たらない。
どうしてそんなことを急に尋ねられたのか分からない。
しかし心の隅に何かが引っかかる。
その正体を探るうちに、特段の目的もなく生きてきたことに思い当たった。
ごく一般的な学生生活を送り、特に差し支えなく民間企業に就職して。
その流れのまま、当たり前のようにつつがなく老いていく。
何もおかしくない、想像するのも容易で平凡な人生だ。
しかし、それならここはどこなのだろう。
自宅でも会社でも、通勤途中でもない。
夢の中にしてはいやに意識がはっきりしていて、とても冷たい場所。
ただただ、真っ暗だ。
いつの間にこんなところへ来たのか、見当もつかない。
直前の記憶を少しずつ辿っていく。
確か、終電ぎりぎりまで残業をこなしてから、早足で駅まで向かっていた。
街灯の明かり、冷たい秋風に揺れる木々。
人がほとんど歩いていない夜道だった。暗がりから誰かが追いかけてくるのでは、と不安で気が張り詰めていたことが今でも感覚に残っている。
そして大きな川に掛かる橋の上へ差し掛かったとき。
欄干にゆらりと動く影があった。
身の毛がよだつ感覚を味わった後、よく見ると猫だったと気づいてほっとする。
その猫は彼女の方をちらりと見たが、特に気にする風もなくぽてぽてと欄干の上を歩いていく。
先を行く猫に微笑ましさを覚えながら、彼女ももう一度歩き出した。
終電が迫っていたが、この猫を追い越してでも急ぐ気にはなれない。
まだ時間に余裕はあるから、と少し暢気に構える。
不意に、強い風が吹いた。
ごうと唸る音に紛れて、小さく途切れるような鳴き声が耳に届く。
欄干から川へと落ちる影。
彼女の体は、咄嗟に動いていた。
一瞬の浮遊感の後、水面に叩きつけられるような衝撃と息苦しさに襲われる。
そこからの記憶は全くない。
「なりたいもの……そうだな、将来の夢は?」
もう一度響いてきた声に、はっと意識を向ける。
川に飛び込んだことまでは思い出した。
ということは、ここは川の底だろうか。
しかし、濡れて体が重いという感覚はない。
そして何より息ができる。落ちながら抱えたはずの猫はどこにもいないし、あの状況から知らない男性の声が聞こえてくるのも奇妙だ。
そのまま溺れて、死後の世界へたどり着いたのかもしれない。
死んだ後にやりたいことを尋ねられても、と彼女は困惑した。
「なんでもいいんだ、言ってみなさい」
まるで子供に語りかけるような声色だった。
低く落ち着きのある優しい声に誘われ、彼女はもっと遠い記憶の淵へ落ちていく。
ぼんやりと、子供の頃はケーキ屋さんになりたかったことを思い出した。
とりとめもない夢。大人になったら忘れるような、ただ楽しそうだからという理由で決めたくらいの、非現実で他愛ないもの。
それでも、子供なりに真剣に考えていた。
自分にとって楽しくて嬉しいものなら、きっと他の人たちにとってもそのはずだと。
周りの友達も、親も、ケーキを嫌いな人なんていなかった。
みんなが笑ってくれるから、みんなのために作ってあげたい。
純粋でまっすぐな、社会人となった自分には眩しすぎる夢。
いつしかその夢は薄らいで、堅実な人生を歩むことを選んだ。
大成するか分からない道を歩むのが、怖いと思ってしまった。
――ケーキを焼くのは、趣味でいい。
休日に焼いては友人や会社の同僚に分けるくらいの、ささやかな日常の彩り。
その程度にとどめることを選んだ人生。
もし、やりたいことを自由にやっていいのなら。
幼い頃の夢を追うことが許されるのなら。
「本当に、何もないのか?」
問いの中に、祈りが混ざる。
何か、何か一つだけでもあってほしい。
そんな願いを込めた言葉。
――に。
声がうまく出せない。
歌い方を忘れてしまった小鳥のように、閉じた喉から絞り出したような音。
かろうじて零れたその音は、問いかけの主には届いていないようだった。
――たい。
それでも、声に応えようとして。
喉を何度も震わせる。
これで諦めたら、思い出した夢の価値まで否定してしまうような気がした。
――に、なりたい。
「ケーキ屋さんに、なりたい……!!」
そう叫んだ瞬間、真っ暗な世界が白く染まった。
◆ ◆ ◆
昨晩見た夢をさっぱり忘れ、レミアは今日もロティをパン窯の前に迎えていた。
今日はパウンドケーキの完成度を高めるべく、材料の配分や窯の熱さを試行錯誤している。
「えへへ、パウンドケーキはもうばっちりですねえ。さすがロティさん!」
「……で、お前のケーキ屋とやらは、これを作り続けるだけなのか?」
朝から既に3つほど焼かされ、ロティは飽きてきている様子だった。
少し調整しても、一見するだけでは変わり映えのないケーキ。
味見しても「甘い」という感想以外の言葉が出ない。
味わいに微細な違いを見つけられるのはレミアだけだ。
「いえいえ。パウンドケーキはあくまで数あるケーキの一つ。
パウンドケーキが焼けたなら、次はみんな大好きお馴染みショートケーキです!」
ふわふわのスポンジケーキと真っ白なクリームを重ね、アクセントに真っ赤な苺を乗せた三角形のケーキ。
甘さと酸っぱさの調和がとれた優しい味わいを思い浮かべるだけで、レミアは幸せそうに頬を緩めた。
「馴染みも何も、この世に存在しないものでは?」
「こここ、細かいところは置いておいて。
ロティさんも、他のケーキ焼きたいですよね?」
「……まあ、同じものを延々と焼き続けるよりは、そうだな」
ロティが焼成中のパウンドケーキにちらりと目を向け、消極的ながらも同意してくれる。
彼の疑問を何とかごまかせたことにほっとするレミア。
乗り気でなくとも同意してもらえて、一層胸が躍る。
「お父様への差し入れにもぴったりですし、焼きましょう! ショートケーキ!」
次の目標を定め、レミアは一つ大きく宣言した。
「そのケーキは、これとどう違うんだ」
「パウンドケーキと比べると、更にふんわりした生地のケーキです。
苺とクリームを使います」
まずは必要な材料を揃えるところから。
クリームに関しては、バタークリームを使うことにした。
生クリームは繊細な管理が必要で、パン焼き場では扱いづらいためだ。
となると、この場にないのは苺だけだった。
「苺……森で見かける、小粒の赤い果物か」
「んん……苺は畑で作ってます。
低木に実るのは木苺で、ちょっと違います」
真っ赤に熟れた苺は甘酸っぱく、老若男女問わず大人気の果物だ。
畑で作るから厳密には野菜――というのが前世での分類だが、この世界では深く気にしなくてもいいだろう。
ラズベリーに代表される木苺もケーキによく使われている。小粒で愛らしい見た目で、苺とはまた違う華やかさがある。見た目に油断すると思わぬ酸味に驚かされるが、その酸味も含めてケーキの心強い味方だ。
「そういえば、苺ってこの辺りで栽培されてますかね?
ビニールハウスとかないですし、温かい所じゃないと採れない……?」
この国には明確な四季というほどのものがない。気候に精霊や魔力の流れが絡んでいて、地球上の中緯度帯なら四季があるといった地理学の基本が通用しないのだ。
王都の中心部に畑がないのは当然としても、ロティがいる森へ行く途中で苺らしき作物を見た記憶はない。農地自体もそこまで多くなく、郊外で小麦がまだ青いなあと、横目に見たくらいだ。
「店になければ、森で代わりになるものを採ってくれば済むだろう」
「そうですね。木苺も甘酸っぱくて美味しいですし!」
この世界で採れる食べ物の知識が浅いレミアにとって、ロティが木苺らしき果物を知っているのはありがたい。
まずは市場に行って苺を探し、見つからなければ森へ。
これからの方針を定め、レミアは意気揚々と屋敷の外へ出た。
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