ケーキの前準備
ロティとの労働契約・握手を終えたレミアは、高ぶった感情も冷めやらぬうちに本題へ取りかかることにした。
今日ロティたちに来てもらった最大の目的は、ケーキを焼くこと。
それも黒焦げやもっちょり生焼けケーキではなく、ふんわり香り高いケーキだ。
オーブンの熱を一定に保つ。
なかなかの難事だが、炎の精霊たるロティならきっとできるはず。
レミアはそう強く信じている。
「さっそくケーキ……は、焼くのに時間がかかり過ぎちゃいますね。
まずはクッキーを試してみましょう!」
「クッキー? それも菓子か」
「はい! サクサクだったり、しっとりだったり、ほろっと崩れたり。
色んな食感があって奥深いお菓子です。今回はサクサクです!」
クッキーはクッキーで、ケーキとは違う良さがある。
食べた瞬間さくっと軽快な音を立て、じゅわりとバターの味が口いっぱいに広がる。
鼻に抜けていく香ばしさと合わせて、五感全てで楽しめる逸品だ。
机の上にはクッキー用の型も準備している。
定番の丸形で、型から抜くときに崩れにくくて扱いやすい。
幸いクッキーは世に広まっていたので、クッキー型は厨房から借りられた。
茶会のお持たせと言えばクッキー。
そこへケーキが参入するための第一歩になる。
レミアは気を引き締めて材料に向き直った。
前世で覚えた材料比率に揃えたバター、砂糖、卵、小麦粉を順番に混ぜる。
黄色いバターを練り混ぜているうちに、だんだん白っぽく色が変わっていく。
オロンが興味深そうに見学している隣でロティはつまらなさそうな目をしていたが、その視線はずっとボウルの中に向けられていた。
「ロティさん、オーブンの予熱をお願いできますか?
先に温めておくと、スムーズに焼けるんです」
「分かった。
で、どのくらいの熱を維持しろと?」
「それはズバリ、190……っ」
クッキーを焼く温度の目安は180℃。
庫内から熱が逃げることを考慮すれば、予熱は190℃あたりになる。
――と、それはあくまで前世での話だった。
「……190?」
「……お、温度って、ないんですよ、ね……?」
「知らん。お前たちの基準を俺に聞くな」
セルシウスさんもケルビンさんもいない世界。
うっかり温度という言葉を使うたび、その事実に直面する。
オロンにも確かめたが、やはり彼も聞いたことはないらしい。
前世と今のオーブンの違いをざっと頭の中に描く。
動力、材質など色々異なるが、決定的な違いは蓋がないこと。
オーブン内の熱はロティが維持してくれるから、予熱でプラス10℃の必要はない。ロティならきっとやり遂げてくれるだろう。
しかし、彼に出来るのはあくまで熱を保つことだけだ。
前世で言う180℃を維持し続ける。
言葉にするのは簡単。
しかしその温度という基準がない以上、どのくらい熱いのか伝える術がない。
「こ、これはつまり、ロティさんの腕に全てがかかっています……!」
「おい。いきなり丸投げする気か」
ロティの声が一段低くなる。
「や、時間は測れますよ。
時間通りに焼いて成功したときが、ベストの熱さです!」
「……何回やらせるつもりだ?」
「成功するまでです!」
言い切ったレミアに、ロティは一つ首を横に振るとオーブンに火を入れた。
ここで問答しても仕方ないと判断したのだろう。
とにかくやってみることにしたようだ。
レミアはその背中を拝んだ後、自分の役割を果たすべく型抜きを始める。
生地を麺棒で平たく伸ばす。
本当はしばらく寝かせた方が型抜きしやすい。
しかしこの世には冷蔵庫がないので、涙を呑んで諦めた。
型を生地へぐっと押し込み、慎重に取り外す。
天板一面に、黄白色の丸が整列した。
一定の温度に保たれたオーブンの中へ、天板を入れる。
それから砂時計を逆さにし、時間が経つのをじっと待ち続けた。
15分後。
胸を高鳴らせ、天板をオーブンから取り出す。
天板の上では、黒い丸が仲良く並んでぶすぶすと煙を上げていた。
「……ほへぇ」
「炭だな」
レミアの呆けた顔を横目に、ロティが淡々とありのままを告げる。
丸く輝くお月様の色を通り越し、燃え尽きてしまったらしい。
「や、これは立派な進歩です。
見てください、どのクッキーも均一に焼けてます!」
「炭だがな」
「焼きムラがないのはいいことですっ!」
手心を一切加えないロティへ、レミアは半分ムキになって言葉を返した。
黒焦げクッキーは天板から深皿に移す。
こんもり積み重なった炭の山は後で処分するとして、次のクッキー生地を並べた。
「とにかく料理はトライアンドエラーです。
ロティさん、次は今より40度下げ……いえ、熱さを0.8倍くらいに!」
「面倒な注文だな……」
ぶつぶつ言いながらオーブンの方へ向かうロティ。
きちんと調節はしてくれるあたり、案外凝り性なのかもしれない。
レミアがふとオロンの方を見る。
彼はロティに微笑ましそうな視線を向けていた。
先ほどから、口を出さず見守ってくれている。
少し年が離れた、一番上のお兄ちゃん。
そう称するのが相応しい。
見ていてくれる人がいると、なんだかほっとする。
「調整したぞ」
「ありがとうございます! じゃあ、次の生地を……」
砂時計をひっくり返し、レミアは椅子を3つ適度な間隔に並べた。
2つはロティとオロンに勧め、残った1つに彼女もぽてっと身を預ける。
「そう言えば、ロティさんとオロンさんってどういうご関係なんですか?」
「知り合いだ」
「知り合いにも色々ありますー。
家族、友達、恋人、ライバル、親の仇、同僚、お得意様……」
ロティの簡潔な答えが気に入らず、レミアは口を尖らせる。
「精霊にそんな面倒で複雑な関係性はない」
「………」
取り付く島もないロティに聞くのは諦めよう。
レミアはオロンの方へ、じいっと期待に満ちた眼差しを向ける。
その視線を受けて、オロンは苦笑いを浮かべた。
「そうだね……友人、というのが一番近いかな?
ロティの言う通り、あまり複雑なものはないんだ。兄弟と友人くらいだね」
「兄弟? 精霊さんにも兄弟が!?
あれ、それならご両親は……?」
「いない。兄弟というのも、お前たちで言う義兄弟だ」
「血の繋がりはないけれど、兄弟の誓いを交わすことがあってね」
「ほへぇ、時代は三国志……。
お二人は兄弟じゃないんですか?」
レミアの率直な問いに、ロティが一つ頷く。
「兄弟になるのは、飽きもせずいくらでも共に過ごせるほど馬の合う奴らだ。
知り合いが全員そんな奴らというわけじゃない」
「なるほど……。ある意味、運命のお相手みたいなものなんですねえ」
一つ精霊たちのことが分かった。
それほど仲良しな精霊たちがいるのなら、ぜひとも一度会ってみたい。
しかし十分仲が良さそうなこの2人でも兄弟ではないという。
どうやら、そう簡単に巡り会えるものではなさそうだ。
さらさら流れ落ちる砂の音が止まる。
レミアはひょいと立ち上がり、オーブンに駆け寄った。
甘く香ばしい匂いが周囲に立ち込める中、慎重に天板を引っ張り出す。
レミアはそこでぴたりと動きを止め、目を見張った。
「わぁぁ……!」
表情がぱあっと明るくなり、瞳がキラキラ輝く。
その背後で、ロティは首をほぐすように肩を回し、オロンは優しい笑みを深めた。
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