初めてのケーキ作り

 その後もなかなか炎の精霊を説得できず、レミアは焦りを覚えていた。


「何とか自力でケーキを焼くには……いやいや。

 それはもう試したんだから、やっぱり炎の精霊さんが必要で……」



 この世界で初めてケーキを焼いたときの記憶がじわじわと蘇る。

ここで改めて、数々の問題点を整理することにした。




◆ ◆ ◆




「うそ……。

 ない、ない、どこにもない……!」


 レミアは厨房で大量の紙を読み込んだ後、再び端から目を通し始めた。

調理台の上には読み終えた紙が散乱していく。


 紙に書かれているのは料理のレシピ。

それも、料理長に尋ねてお菓子について記されたものだけを抜き出した一束だ。


 しかしお目当てのものは、どのレシピにも書かれていなかった。



「ケーキが、一つもない……」


 レミアとして生きてきた十数年を振り返ってみる。

おやつの時間にケーキが出てきた記憶はない。

たまたまリューベリエ家にケーキを焼く習慣がないのかと思ったが、誰に聞いてもケーキそのものを知らないようだった。



「もしかして、この世界にはケーキが、存在しない……?」


 たどり着いた結論に、呆然とする。


 ケーキがないなら、ケーキ屋さんも存在しないことになる。

夢を叶えるどころか、叶える夢そのものが架空の産物だ。



「……ううん。

 きっとこれは、私の使命……この世界にケーキをもたらすのが、私の役目!」


 このくらいで諦めるわけにはいかない、と己を鼓舞する。

パンやクッキーのレシピはあるのだから、近い材料でケーキだって作れるはず。

幸い、卵にバター、小麦粉もある。


「よし。まずやってみて、考えるのはそれから!

 いざ、ケーキ作り!」



 前世の記憶を頼りに、常温のバターと砂糖をクリーム状になるまで泡立て器で――


「……泡立て器?」


 キッチンをぐるりと見まわす。

残念ながら、それらしきものはない。

 

 しばらく頭の中で木魚をぽくぽくと叩く。

その後、木べらを使うことにした。


 少々手際は悪いが、ボウルと木べらを確保してバターと向き合う。

容器を開け、秤にかけようとしたところで、レミアの手は再び止まった。



「……ひゃくグラム?」


 分銅を手に取り、くるくる回転させる。

どこにもグラムのgは書かれていない。


 この世界にはこの世界の計量単位がある。

そして、グラムに変換する数式など存在しなかった。


「う、ううう……。

 とりあえずそれっぽい重さの分銅をこっちに乗せて……」


 雲行きの怪しさに、レミアの威勢はだんだん弱まっていく。


 同じ分銅を使って量れば、最低限パウンドケーキの材料比率には近づくはずだ。

パウンドすら、もはやこの世界では意味を為さない言葉だが。



 嫌な予感をごまかしながら、どうにかバターと砂糖をクリーム状に仕上げる。


 卵を少しずつ入れてかき混ぜ、小麦粉を加えてさっくりと混ぜる。

ダマができないよう祈りを込めていると、幸いにもそれっぽい生地にはなってきた。


 ケーキがないということは、当然ながらケーキの型もない。

苦肉の策として、グラタン用の皿を引っ張り出してきて生地を流し込む。



 後は火を入れておいてもらったオーブンの温度を確かめ、生地を焼くだけ――


「……温度? 温度計?」



 オーブンの横や内側をそろりと調べてみるが、そんなものはなく。

これでは温度が分からない。

しかもオーブンの蓋すらない。

温度管理にかけては、絶望的なほどの壁が見えてきた。


 時計の音に耳を澄ませる。

幸いにも、針の音の間隔はほとんど元の世界と同じだった。


 時間を頼りに、適切な温度を見極めるしかない。

オーブンの下で赤々と燃える薪を見ながら、レミアは覚悟を決めた。



 そして数十分後。



 出来上がったのは、表面が真っ黒こんがり焼けたパウンドケーキもどきだった。


「ううう……まさか、これほどの試練とは……」


 表面は真っ黒、それでいて中は生焼け。

表面をスライスして焦げを削ぎ落とし、オーブンの火からなるべく遠ざけた隅っこで生焼けだけでもなんとかする。


 生地が膨らみ切らず、ぎっちり詰まっている。

パンともケーキとも違う不思議なものが出来上がってしまった。


 とても不格好で、店に並べていい代物ではない。

開業する前から既に廃業の危機だ。



 それでも食べることはできるはず。

少し切り分けてフォークを口に運ぶ。


「………。

 なんだか、甘じょっぱい……」


 塩は入れていないのに、と材料に視線を巡らせる。

小麦粉、砂糖、卵――バター。


 最後に目を止めたバターが、不穏な存在感を見せている。

バターを匙の端に乗せ、おそるおそる舐めてみた。


「とてつもなく、有塩バター……」


 それも保存を利かせるため、かなりしょっぱい。



 もっちょりした食感が、私はケーキではありませんと主張してくる。

食べ物を粗末にするわけにはいかないので、明日の朝食とおやつの時間はこれと格闘することになりそうだ。


 困難が多すぎて渋滞している。

レミアはケーキもどきを呆然と食べることしかできなかった。



◆ ◆ ◆



 パウンドケーキに苦しめられた翌日、レミアは父の書斎に引きこもっていた。


 今のままでは、とてもではないがケーキなど焼けない。

せめてもう少しいいオーブンを、と国内外を問わず調べることにしたのだ。


 しかし、いくら探してもそれらしきものは見つからなかった。

多くの器具や材料はどうにかなるが、オーブンだけはすぐ調達できるものではない。備わっているのはあくまで焼く機能だけだ。


 温度という概念もまだない以上、熱さの基準は個人の感覚に委ねられる。

だとすれば、炎の扱いに慣れている者を頼るべきだろうか。



 娘が書斎から出てこなくなり、父が心配して様子を見に来た頃。

レミアはちょうど到着した父の横をすり抜け、廊下へ飛び出した。


 誰とすれ違ったか気づく余裕もないレミア。

ぽかんとした表情で見送る父をよそに、彼女は厨房へと駆け込んだ。



 厨房に入ると、レミアは真っ先に料理長の元を訪れた。

まだ夕食の仕込みに取り掛かる前らしく、新鮮な食材が調理台の上に並んでいる。


「オーブンの調節、ですか?」

「はい、料理長のグラタンはとっても美味しいですから!

 何か秘訣があるのではと思いまして!」


「なんと、お嬢様からそのようなお言葉を頂けるとは……」


 料理長がハンカチで目頭を押さえる。

レミアはその様子にきょとんとしつつ、次の言葉をじっと待つ。



「秘訣と言われましても、長年の経験によるものでして。オーブンから漏れる熱の高さ、火の勢い、香り……それらを見逃さぬよう五感全てを使うこと、でしょうか」


「ほええ、さすがプロ……」


 聞いただけで真似できないことを悟り、ただただ感心する。


 料理長ほどのベテランだからなせる業なのだろう。

趣味でケーキを焼き、温度計にお任せしていた前世では太刀打ちできない領域だ。


「そ、そのう……うまく熱を一定に保つ方法とか、聞いたことないですか……?」


 自らの技術でやってみせる料理長に聞くのも失礼な気はした。

しかし、彼以上に詳しそうな人もいない。


 レミアがおずおずと尋ねると、料理長は自慢の鬚を揉みながら少し考えこんだ。



「そうですね……炎の精霊なら、もしかすると可能かもしれません」


「炎の、精霊……?」


「はい。彼らは炎を自在に操れます。

 我々には感知できない熱さの違いも感じ取れるのではないか、と」

「ふむふむ……どこに行けば会えるんでしょう。火山とかですか?」


 レミアが重ねた質問に、料理長は申し訳なさそうに目を伏せた。

炎の精霊の詳しい生態はよく分かっていない。

彼らは定まった住処を持たず、気ままに世界を巡っているという。



「しかし、確か……王都の近くに一人、長く留まっている精霊がいるとか」

「じゃあ、その精霊さんにお願いすれば……!

 どんな精霊さんなんですか? 姿とかご存知ですか?」


「いえ、私は見かけたことがないのですが……おい、ジョルト!

 ちょっと来てくれ」

「はーい……って、お嬢様!?

 お、オレ、何かやっちまいました!?」

「ほへ……?」


 若い料理人ジョルトがすぐさまやってきて、大仰なほど驚いて焦り出す。

料理長が話を聞きたいだけだとなだめると、彼はほっとした様子で肩の力を抜いた。


「お前、以前炎の精霊を見たと言っていただろう。どんな姿をしていた?」

「精霊ですか? 遠くからこっそり見たくらいですけど……結構背が高いお兄さんって感じでしたね。炎って言う割に冷たい感じで気難しそうな顔つきでした」


「お兄さんってことは、人間に似てるんですか?」


 レミアが尋ねると、ジョルトは途端にぴしっと背筋を伸ばした。


「は、はいっ! けど、オレたちと全然違うから、見ればすぐ分かりますよ! こんがり日焼けしたような色の肌で、髪の毛先がろうそくの火みたいに燃えてました!」


「遠くからという割に、よく見ているじゃないか」

「俺、視力には自信ありますから!」

「こんがり色、毛先が燃えてて気難しそうなお兄さん……それって……」


 頭の中で姿を思い描く。

どこか、とても懐かしいような気がして、レミアは遠い記憶を手繰り寄せた。



「いかがなさいましたか、お嬢様?」

「……はっ! いえ、とっても参考になりました、ありがとうございます!」

「そ、そんな、お嬢様にお礼を言っていただけるなんて畏れ多い……っ!」

「ほへえ……?」


 ジョルトの反応に、レミアは目を瞬かせる。

いいことを教えてもらったのだからお礼を言う、当たり前のことでは――。

そう考えたところで、先ほど料理長も目頭を押さえていたことを思い出す。


 そうだ、今までのレミアはちゃんとお礼も言わないくらい無口でぼんやりした子だったのだ。つまり彼らは、仕えている家の跡取り娘が成長したことを喜んでいるのだろう。



 これからは皆を安心させてあげるためにも、しっかり挨拶するようにしよう。

レミアは密かにぐっと拳を握りしめた。

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