説得の日々
それからもレミアは数日おきに炎の精霊の元を訪れていた。
毎回新しいプレゼン資料を携え、一通り説明しては炎の精霊に追い返される日々。
「ふう……ようやく帰ったか」
今日もしゅんと肩を落として去っていくレミアを見送り、呆れた様子で呟く。
これで数日後にはけろりとしてやってくるのだから、その辺の魔法使いよりよほどしぶとい。根性だけは認めてやってもいいのかもしれない。
もっとも、それ以外の適性や能力があまりにも抜け落ちているのだが。
「いやあ、今日も見事にフったねえ」
苦笑交じりの穏やかな声が背後から投げかけられる。
「……オロン。見ていたのなら止めに入るくらいしろ」
炎の精霊は苦々しい面持ちを隠すことなく、声の主に応じる。
振り返ると、予想した通りの人物――オロンが立っていた。
「人間の書物によれば、人の恋路を邪魔すると馬に蹴られるそうだから」
「少なくともそんなものではないだろう、あれは」
炎の精霊は疲れた様子で、手近な岩に腰掛ける。
オロンは笑みを深め、ひらりと手の平を上に向けた。
すると彼の隣にも同じような形の岩がせり上がってくる。
どこか優雅にも見える身のこなしで岩に座るオロン。
その様子を見て、炎の精霊は己の全体重を支える岩に視線を落とす。
これもいつの間にか彼が呼び出したものなのだろう。
オロンは土の精霊だ。
ゆったりしたローブに身を包み、炎の精霊よりも少し年上の見目をしている。
髪は実り多い大地と同じ茶色。
その風貌に違わず穏やかな性格で、気難しい炎の精霊とも上手く付き合っている。
土の精霊は、高位の者なら山一つでも難なく作り出せるらしい。
その力で世間話のために椅子を作るのだから、宝の持ち腐れというほかない。
「……お前、ケーキやらセルシウスやら、そういう人間の言葉を知っているか?」
悪戯と区別がつきづらいオロンの気遣いから意識をそらし、レミアが口にしていた奇妙な言葉をいくつか挙げる。
オロンはわずかな間、じっと目を閉じる。
記憶の中を探っているようだったが、やがてゆっくりと首を横に振った。
「いや、僕も聞いたことがないね。彼女は珍しい知識を持っているようだ」
それを聞いた炎の精霊は深々と息をつく。
少しは頭痛の種を減らせるかと思ったが、当てが外れてしまった。
オロンは奇特な趣味を持つ精霊だ。
人間の文化を調べ、研究している精霊など彼くらいだろう。
精霊は長命だから、ひょっとすると人間たち自身よりも詳しいかもしれない。
それゆえ、人間については彼に聞けば早いというわけだ。
「でも、最近は退屈しているんだろう?
少しくらい、彼女のお願いを聞いてあげてもいいんじゃないかな」
「いくら暇だろうと、訳の分からん奴に力を貸すつもりはない」
「悪用するつもりはなさそうだよ。
だから君も、話は聞いてあげているんだろう?」
炎の精霊はオロンからふいと目をそらした。
穏やかな声で、遠慮なく考えを言い当ててくる。
普段の物腰や知識はともかく、こういう所は苦手だ。
「……そもそも、言っていることの意味がさっぱりだ。力をどう使う気なのか……」
「ふふ。きっとお願いを聞いているうちに分かると思うよ」
「聞き入れる前提で話をするな」
彼女の説得に応じれば間違いなく毎日振り回される。
何をさせられるか分からなくとも、ろくなことがないのは確かだ。
「全く、妙な奴に目をつけられた……」
遠くの景色に視線を向けながら、苦々しく呟く。
今日も実に晴れやかな青空だ。
炎の精霊としては都合がいいのに、あの少女の底抜けの明るさがこの晴天と重なる。
いっそ雨でも降ってくれれば、彼女もやってこないだろう。
いや、雨の日だろうとお構いなしに来るかもしれない。
さすがにそんな憂鬱な日に話を聞いてやるつもりはないが。
他愛ないことを考えてかぶりを振る。
オロンはどこか楽しそうに炎の精霊を観察していた。
「……それにしても、随分あの人間に肩入れするな。知り合いなのか?」
「いや、知らない子だよ。でも、何だか面白そうじゃないか」
「お前がそんな理由で人間を気に入るものか。何か考えがあるんだろう」
「考えというほどのものはないさ。
ただ……期待はしたくなるかな」
未知の知識をもたらしてくれそうだから、と穏やかに笑うオロン。
その知識をきっかけに、あの少女は何かを変えていくのかもしれない。
オロンはそれを期待しているのだろう。
炎の精霊は深く考え込んだ様子で目を伏せた。
◆ ◆ ◆
炎の精霊のところから帰ってきたレミアは、屋敷の裏庭に回り込んで散歩している風を装っていた。
正面から堂々と出入りすれば、抜け出していることがばれてしまう。
いわゆるカムフラージュというものだ。
「うーん、今日もダメでした。
明日は違うアプローチを……」
「レミア様。こちらにいらっしゃいましたか」
「はうっ! メ、メナさん……」
顔を上げると、ロングスカートの黒いメイド服を着た女性と目が合った。
メナはクラシックなスタイルが似合う、大人びた顔立ちのメイドだ。
普段からレミアの身の回りの世話をしてくれている。
レミアより数歳年上くらいのはずなのに、貫禄はメイド長にも引けを取らない。
彼女がミスをするところなど想像もつかないくらい、とびっきりのしっかり者だ。
「え、えっとですね、ちょっと土いじりがしたいなーって、裏庭に来ただけでして。
抜け出したとかはこれっぽっちも……」
わたわたと聞かれてもいない弁明を始める。
メナは表情を変えることもなく、レミアが話し終えるのをじっと黙って聞いていた。
主人が話している間は口を挟まない。
そんなところまで完璧なメイドさんだ。
「お召し物の裾が汚れておりますね。
着替えをご用意いたしますので、どうぞお着替えくださいませ」
叱られなかった。
レミアは思わずぽかんとしてメナを見つめる。
我ながらひどい言い訳だと自覚しているし、メナなら嘘だと気づくだろうとも思っていたので、何も言われないことがかえって恐ろしい。
「レミア様? いかがなさいましたか」
「あ、いえ、すぐ着替えます!」
促されるまま、レミアは屋敷に入った。
その後ろを、メナがしずしずと主の邪魔にならないよう控え目についてくる。
厨房からほんのり夕食の香りが漂ってきた。
今日はあったかいスープが飲めそうだ。
と、つい夕食のことで頭がいっぱいになりかけ、慌てて気を引き締める。
メナは何も言わない。
しかし、レミアのおてんばを見抜いている可能性が高い。
もしそうなら、何とか口止めしなくては。
炎の精霊に協力してもらうことはケーキを焼く上で絶対に必要だ。
外へ抜け出していることが父にばれたら、彼に会うことも難しくなってしまう。
ちらりとメナの様子を窺う。
怒っている素振りもなければ、普段と違う様子もない。
いつもの完璧なメイドさんだ。
彼女は考えていることを顔に出さない。
しかし言葉にはしっかり出す。
その彼女が苦言を口にしないということは――。
レミアは一人で駆け引きに勤しみながら、部屋までの廊下を進む。
部屋に入ると、メナはてきぱきと着替えの服を用意してくれた。
先ほどまで着ていた服と同じく、動きやすさを重視したワンピースだ。
この後は外出も客を招く予定もない。
ラフな格好で問題ないと判断したのだろう。
着替えを手伝ってもらいながら、レミアはおずおずとメナに声をかける。
「メナさん……。
そのぅ、土いじりのことなんですけど、父には内緒にしてもらえると……」
「はい、心得ております」
背中側のボタンを留めながら、メナは普段通りの淡々とした声で応じた。
「あ、ありがとうございます!」
メナからの返答がなんだか少し引っかかる気もしたが、あっさり了承してもらえるのはとてもありがたい。
これでまた炎の精霊に会いに行ける。
次のプレゼン用の資料は、気が急いて昨晩のうちに作成済みだ。
机の上の資料に目を向ける。
明日こそは、とレミアは気合を入れ直した。
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