総弦奏者

凛快天逸

総弦奏者

 総弦空間の中で、2本の手が総弦に近づいていく。そして総弦奏者が総弦を爪で弾いた。途端、弦楽器に似た旋律が奏でられる。

 だがその音の響きは、鋭利な刀のように鋭ければ、感情が濁流のように押し寄せるような激情なものでもあった。まるで総弦の弦そのものを切り裂くかの如く、奏者は力を爪に込めていた。

 苛烈なる演奏によって、総弦の一つの弦が乱りに揺れ動くと、空間の中で無数に張り巡らされている他の総弦に共鳴していく。総弦の響きは調和が崩れていたものの、共鳴が重なり合うと、それらは一つの音へと姿を変えた。


 総弦の響きが重層的に織り成されて誕生した音は、間もなく、総弦空間の壁を飛び越えていった。総弦空間の外には暗闇が広がる。

 無限の虚無は、鳴りを潜めた無数の弦によって埋め尽くされている。それらはただ静的に佇み、何ら機能を果たしていない。


 弦こそが、世界の調律の機能を果たしている。それらは宇宙の最小規模、そして複雑怪奇な構造に潜んでいる。それらは普通、特定の響きを持ち、お互いと共鳴し合う。

 総弦は、弦に対して、絶対的な上位に位置している。決して、弦が総弦に影響を及ぼすことはなく、総弦が弦に影響を与えるのである。つまり、総弦奏者の手から奏でられた総弦の旋律が、宇宙の全てを規定する。


 総弦の旋律が無限なる虚無の海を流れていくと、共鳴という形で、それらの弦に生命を与えていく。動き始めた弦は百花繚乱に鳴り響き、無から有を誕生させていく。宇宙が次々と生まれていき、無限なる虚無はたちまち有に溢れた。

 虚無に命を吹き込みながら、総弦の音が広大な旅を続けていくと、誕生したばかりの平行世界の果てに辿り着いた。だが同時に、総弦の旋律は段々と鳴りを潜めていき、力を弱めていく。


 微弱な旋律でも、総弦は消えてしまう前に、最後の仕事を成し遂げた。

 そこで遂に、地球と呼ばれる惑星が内包される宇宙が誕生したのだ。絶命寸前の総弦は、連なる世界の果ての弦に、共鳴という命の潤いを与えた。

 総弦がさらに移動を続けていく間、果ての宇宙は進化を推し進めていく。その過程で地球が誕生した。さらに時わずかにして、遂に、究極的な存在が誕生した。


 生命である。それはあまりにも小さいものであったが、それが尊い生命である事に揺らぎはなかった。そして生命は規模を大きくして、進化していく。

 地球の進化の過程で、特有な生命体の誕生を見た。それは他の生命体とは異なり、理性を持ちながら言語を操り、文明を築き上げる生き物であった。





 人類が誕生すると同時に、総弦の旋律が平行世界の最果てに辿り着き、消えてゆく。

 

 総弦奏者は総弦に爪を突き立てる。奏者の手は緊張を見せて、小刻みに震えるほどの力を滲ませる。まるで無理やり旋律を摘まみ出すように。

 当然ながら総弦は相当の反応を引き起こした。総弦は乱雑な音を吐き出し、他の総弦と共鳴して、粗い音に変化を見せる。

 そして音は再び、総弦空間を超過した。 

 乱れた総弦の旋律は、通過する平行世界を暴力的に乱していく。先程誕生したばかりの、それぞれの弦は、加速的に崩壊の過程を歩んでいく。


 地球にも総弦の響きがやってきた。

 総弦奏者から奏でられた音が新たに到達する頃には、人類は大いに発展していた。

 だが文明が栄え始めると、地球上の人類は争いに発展していた。武器が使用され、死者が大量に発生する。そして争いは収まる様子を見せない。

 

 そんな時、地球に異変が訪れる。荒れ狂い始める気候。異様な天体的な現象。爆発的に流行する疫病、奇病。そして山の噴火。

 地球上の人類は異変を悟っていた。だが原因を追求することは出来なかった。それらは科学の力を持ってして、理解することが出来る範疇からはあまりにも超越していた。

 人類は一つの結論に至ったのである。

 神の怒りであると。


 地球上の人類は神に乞うていた。ある人々は母なる大地に額を押し当てて懇願している。またある人々は人間を生贄にしている。人々はただ尽くす限りを尽くし、神の怒りとして信じる天災を鎮めようとする。

 ある教会では聖歌が歌われていた。教会の席には多くの参列者が見られる。彼らは信仰などに関わらず、集まってきた。

 教会の中で音楽を奏でているのは、オルガン奏者である。彼は楽器演奏者としてだけではなく、作曲家としても職務を果たしている。




 濁流のような無数の総弦が、世界の果てで消えていく。


 総弦奏者は上を向いた。

 演奏は遂に苛烈さを極めて、そこで勢いが保たれる。無数に張り巡らされた総弦を爪で逆なでする。その間、奏者の身体は総弦のように硬直していた。


 他の総弦と波長が重なり合っていくと、音を形成して、総弦空間から飛翔していく。

 そして遂に、平行世界は最大の危機に直面した。弦は限界まで調律を乱され、崩壊寸前までの相貌を見せている。

地球の外の並行世界では、既に壊滅している部分も多く見られる。ある所では、宇宙の時空間そのものが真っ二つに分断され、一瞬にしてあらゆる生命体は命を絶たれた。

 しかし例外的に、地球は破滅からは未だに逃れていた。総弦空間から最も離れた場所に地球が位置しているため、総弦奏者からの影響は最も薄かったのだ。だから危機から免れたのである。


 人類は神に祈り続ける。教会では荘厳なオルガンが続けて演奏される。町や村でも、ありとあらゆる儀式を行っていく。

 しかし残念ながら、彼らの宇宙、そして宇宙を越えた無限の並行世界が瀕する危機が消え去ることはない。あらゆる世界の弦は調和を崩されて、本来果たすべき機能を果たせないでいる。

 このまま時間が経過すれば、地球の惑星ごと滅亡は免れない。

 遂に、無限なる平行世界は、総弦奏者の演奏によって誕生、そして終焉を迎える寸前にまで達した。総弦奏者が、総弦そのものを爪で斬りつけようとした、瞬間だった。




 しかし、そこで奇跡が起こった。


 ぽたり。

 総弦空間の上から、一つの水滴が落ちてくる。その水滴が総弦の表面に触れると、勢い良く弾け、分裂し、激情に鳴り響く総弦の響きを、包みこんでいったのである。

 総弦奏者は視線を戻した。さらに手の動きを苛烈にすることはない。むしろそこから冷静さを取り戻していく。結果として、総弦から鳴り響いていく音は段々と本来の旋律に近づいていった。


 終焉寸前の平行世界は、恵みを与えられていく。根本から粉砕されようとしていた時空間そのものは、本来の美しい曲率を取り戻した。あらゆる惑星から天災が収まっていき、安寧を得る。

 もちろん総弦空間から近い世界の幾つかは、呆気なく崩壊していった所もあった。それらは一瞬にして滅亡し、永遠に消えていく。


 静謐なる総弦の音が地球に到着した。

 地球に押し寄せる巨大な洪水は、直前の所で収まった。木製の船を使って逃げようとしていた彼らは、それを奇跡として認識した。町に建立されようとしていた巨大なる塔は、根本から傷が入り込み、倒壊を余儀なくされた。その破損途中で、多くの犠牲者が生まれる。連続的な地震によって、大地の至る所に隔絶的な亀裂を刻まれる。




 静謐さを宿した総弦の旋律は、滑らかに平行世界の中で調和していく。


 総弦空間の中で、総弦奏者は、総弦を演奏する。

 既に総弦の表面からは水滴は流れ落ちている。まるで己に対して内省を見せるような態度で、今度は趣向の異なる方法を持って総弦を爪で弾いた。

 結果、総弦が快活に鳴らされた。総弦奏者は、無数に張り巡らされている総弦を、美麗に演奏していく。そこに淀みはなかった。


 完璧なまでに調和の取れた総弦の音は、平行世界にさらなる安寧を与えていく。荒れ狂う平行世界はようやく平静を取り戻していった。狂いかけていたそれぞれの宇宙の無数の弦は、本来の美しい響きを奏でる。宇宙、惑星は栄え、生命と自然を踊らせていく。


 そして再び、平行世界の果てに辿り着いた、流麗なる総弦の旋律。

 既に総弦は消滅寸前になっているのだが、それでも、総弦奏者の恩恵を受けるには、あまりにも充分であった。大地は回復し、農作は実り、生命は繁栄していく。

 祈りを続けていた人類は、神に感謝を捧げる。彼らの真摯なる祈りが神に通じたのだと。神が寛大なる精神を持って、地球を救済したのだと。


 その時だった。

 ある教会のオルガン奏者が上に視線を向ける。彼は、総弦の旋律を耳にしたのだ。それは、無限に連なる並行世界の最果ての総弦空間から鳴らされた総弦奏者の音色だった。それはあまりにも儚く、そして同時にあまりにも人間の耳には、強力なものであった。




 彼は、その総弦の旋律を忘れることはなかった。

 

 総弦空間の中で、2つの手が総弦からゆっくりと離れていく。総弦奏者は、出来るだけ波立たせないようにと、爪を弦から乖離させると、総弦の演奏は終了した。

 総弦空間が闇に満ちていく。

 

 暗闇の中に、緋色に近い明かりが灯される。

 ある教会の中で一人の作曲家が、激甚の感情を胸に迸らせながら、五線紙に旋律を書き込んでいた。彼は先程、旅から帰ってきたばかりであった。あの時耳にした総弦の旋律が、己の内で開花したのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

総弦奏者 凛快天逸 @rinkaitensor

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ