第21話 姉弟の記憶②
母親がどうしてブロドをあそこまで嫌っているのかわからないまま、月日はそれでも過ぎた。
ブロドとチャスの父親が商売をやって成功したらしく、平民だが豊かな暮らしをしていた。子守の老婆は、いつの間にか来なくなり、代わりに使用人が三人交互に世話をするようになった。
チャスは、相変わらず親の目を盗んでブロドの部屋へと来ていた。
それだけが、ブロドの生きる意味だった。
***
ある夜、チャスはパンパンに詰まった鞄を持って、ブロドの部屋へとやって来た。
「ブロド!」
「チャス、それなに?」
二人は、8歳になっていた。
チャスが部屋に持ち込むのは大抵小さなもので、持って動けるくらい軽いものが多かった。それを考えるとその鞄は大き過ぎるし、重そうだった。
珍しい荷物に首を傾げる。
「いろいろあるの」
簡潔にそれだけ言うと、チャスはブロドのクローゼットへ向かう。数着しかない服の中から、暖炉の無いこの部屋で、寒い日に着せられる上着をチャスは取った。
「これ、きて」
「え?」
「外にいこう、ブロド」
それを聞いて、ブロドは目を大きくした。今まで出たことのある「外」は庭くらいだった。でもチャスがいつも言う「外」は、家の敷地外という意味だ。
驚くブロドに、チャスは上着の腕を通させる。
「はやく」
「でも、チャス……」
「パパとママ、今日はおそくまでかえってこないんだって。今のうちだよ、ほら」
ブロドが上着を着ると、チャスは鞄からピンクの手袋と白の手袋を取り出した。白い方をブロドに渡す。
「これは、こうやってつけるの。ゆびのとこに……、そう」
チャスの真似をして、初めての手袋を身に着けた。
そして、ブロドの手をチャスが握る。手袋越しでも、チャスの体温はあたたかかった。
「こっち!」
部屋の扉を開けて、廊下の様子を窺う。両親は出かけていて、三人の使用人も部屋へ戻っているはずだ。
誰もいないのを確認して、チャスとブロドは廊下へ出た。扉を閉めて、音を発てないようにゆっくり歩く。
無言のまま、二人は玄関の戸をくぐった。
「――わぁ」
広い夜空。
月が明るくて、夜なのに遠くまで見える。
雪が、ちらちらと落ちてきていた。
チャスは慎重に戸を閉めて、それから門の外へとブロドの手を引いて走って行く。
「ゆきだ!」
「うん!」
銀色に輝く空気が、美しかった。
吐き出す息が白いくらいには寒かったけれど、それが気にならないくらい二人ははしゃいでいた。初めて、一緒に外に出られたのだ。
門を出て、道を駆ける。
見る景色が、どんどん新しくなっていく。目に入る全てが、ブロドの心に鮮明に宿った。
「すごいよチャス! 外だ!」
「よるのまちもきれいでしょ」
「うん」
家から少し離れると、走るのをやめて歩くことにした。ブロドが目を輝かせてキョロキョロと周りを見るから、自然と速度は遅くなる。
チャスはブロドに、色んなものを見せてくれた。
夜の街、舞い落ちる雪、ランプの灯りが漏れる家、人の声で賑わう店、凍り始めた道、その端に咲く花。
その景色が、重なる音が、漂う香りが、全てブロドにとっては初めてで、チャスの話でしか知らない「外」だった。
「チャス、あれはなに?」
「あれは馬車。お馬さんが、車をひっぱってくれるの」
「あれがお馬さん……」
「すっごくはやいんだよ! こんど一緒にのろうね!」
ブロドが訊ねる度に、チャスは一つ一つ教えてくれた。まだ小さかったのでわからないこともあったが、精一杯答えてくれていた。
何かを教えてもらう度に、ブロドは楽しそうに笑った。
二人で手を繋いで歩いているこの時間が、永遠に続けばいいのにと思った。
*
夜が深まってきて、街にあった灯りがどんどん消えていく。
月の場所も十分移動していたが、それでも二人は歩き続けていた。
ぐぅ、とブロドのお腹が鳴った。
「おなかすいたの?」
「うん……。ごはん、今日はもらえない日だった」
ブロドの食事は数日に一回抜かれていた。
おそらくだが、母親がそう指示していたんだと思う。ただ食わせるのも嫌だったのだろう。殺すわけにはいかないが、虐める目的で抜くくらいなら十分にやりそうなことだった。
「そんなことしてるの!? ひどい!」
ブロドと違い、チャスは両親と共に過ごしていた。この頃には、ブロドへの態度が異常であることに気づいていた。
一緒に生まれたのに何故だか両親は、特に母親はブロドを嫌っていた。顔も見たくないと部屋を隔離し、様子を見にすらいかない。その分、チャスのことは可愛がっていたが、どこか曲がった愛情だった。
「いいんだ」ブロドは、首を横に振る。「あの人は、ブロドのこときらいだから」
「いいわけない!」
チャスはこの時やっと、両親への怒りを口にした。ブロドが、ブロド自身が傷つくのが当たり前のように言うのが許せなかった。
「ブロドはぜったいなにもわるくない! あんなのへんだよ! なんであたしたち、いっしょにいられないの?」
「チャス……」
「きょうだいなのに。いつもまでもママはブロドに会いにいっちゃダメっていうし、パパはなにも言わない!」
チャスが出かけた先では、両親と兄弟の家族連れをどこでもよく見かけた。父親と、母親と、子供たち。みんな、チャスと家族構成は同じなのに、子供を見る目が全然違う。
「このまえ、おはなさんで弟がいるっておばあさんにはなしたの。そしたら、きょうだいの仲がいいとパパとママはうれしいから、なかよしでいてねって言ってた」
チャスは、ブロドの手を強く握りしめた。
小さい体で、何かを耐えていた。
「でも、あたしがブロドといっしょにいたいって、仲よくしたいって言っても、ママはおこってばかり。他のかぞくは、みんないっしょにいる。パパとママ、おかしいんだよ……」
ブロドは、チャスの言ってることの半分も理解できていなかった。
何せ、あの部屋がブロドの全てなのだ。窓から眺める景色と、チャスの話でしか、外との繋がりは無い。他の家族のことは何一つ想像すらできなかった。
「チャス」
でも、目の前のチャスは、とても悲しそうだった。だから、握られた手を同じくらい強く握り返す。
「ブロドは、チャスがいればいいよ」
嘘偽りない、ただ一つの生きる意味。
ブロドはチャスのために、あの部屋にいるのだ。好きも嫌いも、寂しいのも嬉しいのも、チャスがいなければ知らないままだった。
「……っ」
チャスは、ブロドに抱き着いた。片割れの体が温かいから、寒い夜も怖くない。
「チャス?」
よくわかっていない様子のブロドも、チャスを抱き返した。その存在だけが、ブロドをこの世界に留まらせている。
「……おなか、すいたんだよね。あっちの方、いいにおいがするから、いってみよう?」
チャスは、ブロドに抱きついたままそう言った。
「……うん」
そうして二人は、近くの大きな屋敷へと向かった。
屋敷は二階建てで、庭が無かった。後から思い返せば、貴族のタウンハウスだったのだろう。
周りの家がほとんど明かりが落ちているのに対して、煌々と窓から明かりが漏れている。正面玄関付近には何台も馬車が列をなし、談笑を終えた着飾った男女を乗せていた。
チャスは、正面ではなく裏手に回った。
裏口に通じる小さな門は荷物の出し入れのためか開け放たれていて、裏口も隙間が開いていた。チャスは遠慮なく門を通り抜け、躊躇うブロドの手を引いて、扉の隙間から中を覗き込む。
そこは広い厨房だった。
火が煮炊きしていて、パンや野菜が棚に並ぶ。家の台所とは規模が違う。そこかしこに食材があった。美味しそうな匂いを漂わせているはずだ。
「入ろうよブロド。みつからなければだいじょうぶだよ」
「でも……」
「あたしもおなかすいたの。少しもらってもへいきだよ」
数人の人間が動き回っているのがわかるが、屈んで台の影を移動すればきっと見つからない。
何か言いかけたブロドに「しーっ」と静かにするよう言ってから、チャスは扉の隙間を抜けた。そのまま台の影に隠れて、パンが置かれた棚へ向かう。みんな作業で誰一人として双子に気づいていなかった。
机の上からなるべく頭が出ないように、そうっと厨房内を見渡す。もう一度誰も見ていないのを確認して、えい、とその台に乗っていたカゴからパンを二つ取る。
丸い、子供の手のひらほどの小さなパンだった。
チャスはブロドに手渡すと、その場で自分の口に一つを運ぶ。口を動かすチャスを見て、ブロドも真似るように頬張った。
素朴だけど、少し塩気のある優しい味だった。空腹のブロドにとっては、かなりのご馳走だった。
しばし無言でパンを噛んでいると、急に外の気配が変わった。
「?」
悲鳴が聞こえ、廊下の奥の明かりが消えて辺りが薄暗くなる。それからガラスの割れる音がそこかしこで小さに聞こえ始めた。割れる音と悲鳴が交差する中、人が走ってくる音が近づいてきた。
「お、おい! 向こうから煙が!」
「火事!?」
「いや、廊下のランプ全部消え――うっ」
その声が途切れると同時に、厨房にいた人々が、次々と床に倒れた鈍い音がした。
そして、厨房内を照らしていたランプの火が一斉に消えた。
一気に暗くなった部屋で、料理とは違う煙が天井の方に広がっていくのが見えた。
ブロドとチャスは、立てもせずにその場で身を寄せ合う。
動いては、いけない気がした。
「――誰かいるのか?」
冷たい、くぐもった女の声がした。
突然消えた全ての灯りと、やって来た煙によって倒れる人々。何が起こったのかわからないまま、幼いチャスとブロドはただその場に座り込むしかできない。
「……子供か」
厨房へ入って来た声の主が、二人を見つけたのがわかった。
声は女のものだが、チャスとブロドから見える足はズボンを履いていた。上半身は、煙が濃くて見えない。
「屈んでいたから、煙を吸うのが遅れたのか」
女が、目の前まで来る。しゃがみこんで、腰が抜けたブロドとチャスの顔を覗き込んだ。
細い輪郭に浮かぶ、色素がほとんど無いような灰色の瞳。声がくぐもっていたのは、黒い布を口に巻いていたせいだったようだ。
「!」
その色の抜けた瞳が双子を捕らえ、大きく見開かれた。
裏口の隙間から煙が逃げていき、ゆっくりと女の全貌が見えてくる。
瞳と同じ、灰色の髪。暗闇では銀色にも見えるその髪は、ひどく儚げで――。
「……お前、は」
――その女の手が、ブロドの頭を撫でた。
優しく乗せられたその手に、ブロドの中にあった恐怖心が消えた。
誰にも撫でてもらったことのない頭を、ただただ壊れ物を扱うかのように撫でられる。
「可哀そうに」
そうして、二人まとめて抱きしめられた。
知らない女の匂いがした。甘く、柔い肌の匂いだった。
「双子だなんて……」
戸惑いのまま、チャスとブロドは女の肩に頭を乗せられた。どうしていいかわからず、ただただ互いの手だけを握りしめていた。
それを目にとめた女は、少しだけ体を離して、二人を交互に見る。
「お前たち、帰る家はあるのか?」
その言葉に、ブロドはチャスを見た。チャスは、恐怖ではなく戸惑いを浮かべて、女を見上げた。
「……もう、かえりたくない」
何が起こったのかわからないが、二人での外出は楽しかった。
ずっとずっと夢見ていたことが叶ったのだ。一人では何でもなかった景色が、二人だとどこもかしこも輝いて見えた。
チャスは今晩、両親がいない隙にこっそりと抜け出して、そのまま戻るつもりだった。逃げる先など無かったからだ。
その答えに、女は口に巻いていた布を下げた。瞳との間が完璧に配置された小さい鼻と形の整った唇が現れる。
「なら――」暗く赤い紅を纏った唇が薄く笑った。「――私と来ないか?」
その表情は慈愛に満ちていて、母親からもらえるはずだった愛を、この人がくれるのだと予感した。
双子は互いに見つめ合ってから、無言で頷いた。
「――いく」
その答えに女がしっかりと頷く。
途端、女の体が光り始めた。急激に明るくなったその人を直視できず、ブロドもチャスも反射的にぎゅうっと目を閉じた。
すると、身体中が熱くなっていく。熱を出した時のように、身体の中心からカッと燃えるような熱さだった。
それに驚く間もなく、意識が遠のいていき――。
ブロドが完全に気を失う前、一瞬だけ見えた女は、ひどく哀しげで、でもとても優しく微笑んでいた。
もう、何も怖くなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます