第18話 兄妹の記憶④

 目を覚ましたばかりのロビルスは、同じテーブルに腰かけるクーと、それからブロドを見た。

 何があったのかを思い出すような間を少し置いてから、「ああ……」と小さく零す。


「あの薬は、一体……」

「ちゃんと薬だったろ」

「でも……」


 理解の追い付かないロビルスは、クーとブロドに何かを訊きたそうに言葉を探す。


 眠っている間に、取り戻した記憶を夢として見たのだ。

 一度失くした、本物の自分自身の最も幸せな記憶。それがどんなに満たすだろう。そして、そのせいでサリナを傷つけたことをどんなに悔やむだろう。


 結局ロビルスは、何も訊かずに席を立った。


「よくわからないけど、ありがとな。俺、とにかく今すぐにでも謝ってこなきゃ。サリナにあんなこと言って……」


 取り戻した幸せよりも、後悔を思うロビルス。

 真っ先に考えたことがそれというのは、彼の優しさで、妹を想う愛情の深さだ。ブロドは、ロビルスの斜め後ろを指さした。


「すぐ謝れるぞ」

「え」


 振り返ったロビルスは妹の姿を発見して、目を見開いていく。

 サリナ、と喉が震えたかと思うと、力いっぱい抱き着いた。


「サリナぁ!」

「え、ちょっとやめてよお兄ちゃん!」

「覚えてないなんて言ってごめんな……! あの約束忘れたなんて、そりゃ怒るよな……」


 大きな男が、涙声で謝る。

 当然周りにいた人間の何事かという視線を集めるが、ロビルスは構わずサリナを抱きしめ続ける。

 サリナも離れてよと言いながらも、引き剝がそうとはしていなかった。泣いている兄の背中を、戸惑いながら叩く。


「ほんとごめんよ……」

「ちょっともう。どうしたのよ」


 突然のロビルスの行動が理解できていないが、心の底から謝っているのは伝わる。隠し事なんかできないくらい、まっすぐに優しい兄なのだ。


 元々ロビルスは感情豊かだが、こんなに泣いて抱き着いてくるなんて今までにあっただろうか。サリナは兄妹になってからの年月を振り返りながら、やがて背中を叩くのをやめて、同じようにぎゅうと抱き着いた。


「……私も言い過ぎた。ごめんね」


 それに一層嗚咽を大きくしながら、ロビルスは抱きしめる力を強めた。


「サリナは悪くないよ。俺が約束を守ってないどころか忘れたんだし、怒るのも当然だよ」

「いいよ。あの話、私の為の嘘だったんだよね」

「え……」


 その一言に、ロビルスは固まった。サリナからゆっくり体を離して、妹の顔を見つめる。


「な、なんでそれ……」


 明らかに動揺するロビルスの言葉に、サリナは何の含みもせずに笑った。


「だってお兄ちゃん、私が物心ついてからその話すると、必ず話題逸らそうとしてたじゃない。それくらい、すぐに気がつくよ」


 ブロドはそれを聞いて、少し驚いた。

 原料ラベルでは、その感情までは読んでいなかった。あの瞬間はただ目の前の小さなサリナをどうやったら泣き止ませられるかを一心に考えていた。嘘をついてるなんて、思えなかったのだ。


「嘘なんかついてごめん! 長い間、隠しててごめん! ……もうこんな兄ちゃんのこと嫌いになっちゃった……よな」


 けれどそれは事実のようで、ロビルスは申し訳ない気持ちに耐えきれないように俯いた。

 約束を守っていなかったこと、そもそも約束の内容が嘘だったこと。それから、それ自体を忘れていたことを、必死に謝る。でも、サリナは笑っていた。


「もう、バカね」サリナは呆れを滲ませてたが、とても嬉しそうだった。「あの日からずっとお兄ちゃんのこと大好きに決まってるじゃない」

「……!」


 言葉なんか出せずに。


「わっ」


 ロビルスは、もう一度サリナに強く強く抱き着いた。

 また大粒の涙を見せ始めてしまったロビルスに、周りの客たちが拍手や激励の声を上げる。


「よかったなぁ、ロビルス!」

「サリナちゃん、嫁に行ってもたまには顔出してくれよー!」


 何が何だかよくわからない状況だが、歓喜が伝播してしまって一様に幸せな空気に包まれている。

 クーは楽しそうにその歓声を上げる側に回り、ブロドはただただ二人を見て、そして自然と笑っていた。とても温かくて、みんなに愛されている店だ。


「くぉらっ、ロビルス! お前、何やってんだ営業中に!」


 そして、誰もが予期していた親父さんの登場で。

 日常茶飯事の父と息子のやり取りが始まり、サリナも客も、一斉に笑い出す。

 先ほどまでロビルスに送っていた声援はどこへやら、客たちは野次馬になってその光景を楽しんでいた。


 それをブロドは、ぼうっと眺める。

 この眩しい景色は、経験したことのない人間の営みだ。

 チャスとの二人きりの静かな生活も、育ててくれたメズたちとの安心できる思い出とも違う。他人同士が集まって、でも同じことを共有して笑い合える一瞬の世界。


(――チャス)


 この新しい景色を、チャスにも見せたいと思った。

 どんなことがあっても、ブロドにとってチャスはただ一人の姉である事実は絶対に変わらない。ロビルスとサリナのようにお互いを信頼できて、背中を見せあえる相棒なのだ。


「ブロド」


 チャスのことを考えながらみんなの輪を外から見ていると、野次を飛ばすのを終えたクーが話しかけてきた。

 いつものように軽い調子だが、どことなく優しい視線だ。


「ロビルスが記憶を失くして喧嘩したと言っていたのは、俺がこの前この店に来た時だった」

「そうみたいだな」

「これでわかったろ。チャスがロビルスの記憶を奪ったんじゃないんだよ」

「あ……」


 そう、か。

 ただ事実を並べればすぐにわかる結論だ。

 でもブロドとの約束を破って、チャスが二人の喧嘩の原因を作っていたらという思考に囚われて、目の前にある答えに気づいていなかった。


 逃げ回るロビルスとそれを笑って見ているサリナへ、ブロドはまた視線をやった。


「よかった……」


 思わず零れた呟きに、クーは何も言わず微笑んだ。

 それに気づいて、はっと顔の筋肉をまた寄せる。


「おい、何だよその表情は」

「いやぁ、何でもないって」

「何でもないわけないだろーが」

「よかったね、ブロド」

「……うるせぇな」


 第一、クーがメモリアの持ち主がロビルスだと思い至ったのは、ブロドが原料を読み終えてからすぐだったはずだ。

 ということはこの男、ずっとこのメモリアを作ったのがチャスじゃないと気づいていたにもかかわらず、何も言わなかったわけだ。

 その事実に気がついてしまうと、怒らずにはいられない。


「何でさっさとチャスじゃねぇって言わなかったんだよ!」


 だいぶ心中穏やかじゃなかったのに。

 クーは悪びれもせずに手をヒラヒラと振った。


「結果見た方が早いかなって思ってさ」

「オレの気持ち少しは考えろよ!」

「君たちだって、俺の気持ちなんかいつも全然考えてくれないじゃないか。良い結末で終わるってわかってたんだし、待つくらいよくない?」

「この野郎……」


 なんて横暴な意見だ。

 普段のクーの悩みなんかこれっぽっちにも及ばないだろう。

 親子くらいの歳の差がある子供にこの態度。本当に大人げない。


「サリナ!」

「はーい」


 ブロドはサリナを呼んで、メニュー表から適当にいくつか注文する。


「え、こんなに食べられる? 大丈夫?」

「食べる。んで、金はクーが払う」

「えっ、何それ」

「このくらいで勘弁してやるんだから、安いもんだろ」


 そのやり取りを眺めて、サリナは「そうよね」とブロドの援護をする。先ほどからの彼女のクーへの対応を見る感じ、普段からクーには振り回されているとみた。


「お安い御用だよね、クー。高給取りなんでしょ」

「ちょっと、サリナもブロドの味方なの?」

「日頃の行いを振り返るのね」ふふんと笑ってから、サリナは振り返る。「お父さん、お兄ちゃん!」


 いよいよ親父さんに捕まえられ絞められているロビルスだったが、サリナの声に親子二人とも反応して、こちらを見る。


「注文が入ったよ! 作ってきてちょうだい!」

「おー!」

「わ、わがっだ……」


 その声を合図に、争うのやめてすんなりと厨房へ戻って行く二人。ロビルスはどう見てもダメージを受けていたが、なんだかんだきちんと跡取りなんだろう。

 あれはあれで仲がいい証拠だと見送ると、サリナはブロドに笑いかけた。


「ね、それより遅くなっちゃったけどさ。私サリナ、よろしくね」

「……ブロド」


 遅ればせながら挨拶を交わし、サリナは愛嬌たっぷりに手を振ってカウンターへと戻って行く。止まっていた店の営業が再開する。

 先に届いていた料理は、すっかり冷めてしまっていた。

 けれどもブロドは、フォークを伸ばす。


「頼めば温め直してもらえるけど」

「いや、いいよ」


 口を動かしながら、双子の生家には無かった家庭の味を感じる。

 こういう味が、きっとそこら中に溢れているんだろう。人生で一番の美味じゃなくても、小さいけれど積もっていく幸せの味。


「なぁクー」


 同じように料理を食べ始めたクーに、ブロドは話しかけた。怒りも嫌味もなく、ただただ普通に頼みごとを相談するように。


「何?」

「今度は、チャスも連れてきてほしい」


 クーはほんの数秒だけ、ブロドを見つめた。


「うん」返事をするその声は、棘を何一つ帯びていない。「もちろんだよ」

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