第13話 異変

 そんなこんなで新たに届けられたメモリアによって、状況は日常へと戻った。


 サラの笑顔の剣幕というのは恐ろしいもので、クーも仕事をする気力を取り戻したのか、定位置の執務机に腰かけて書き物を始めた。

 ブロドとチャスもさっそく記録をすることにした。紙とペンと、二人の前にメモリアがまずは一本ずつ。


 ブロドが目を閉じ左手で小瓶をなぞろうとしたところで、喉が窄まったような音で小さな小さな悲鳴が聞こえた。


「チャス?」


 隣を見れば、チャスが瓶を握りしめたまま、みるみるうちにその目が大きく見開かれていく。


「――――……」

「チャス?」顔から血の気が失せたように顔面蒼白になっていくチャスに、ブロドは持っていたメモリアを机に置いた。「おい、どうした?」


 隣に座るチャスの肩を揺するも、何の反応も示さない。

 これは、ただ事ではない。とにかくチャスの様子がおかしかった。

 クーもブロドの声でチャスの異変に気づいて、チャスの隣へとすぐさまやって来た。


「チャス?」


 声を掛けるが彼女はやはり返事をしない。ただ、瓶を固く握りしめては、それを呆然と見つめているだけ。

 ブロドは、突然の彼女のその表情に嫌な予感を覚える。


「チャス、どうしたんだ」


 チャスは瓶を固く握っていたが、ブロドがその手に力を加えて瓶を奪うようにして触ると、やっと声に気がついたようにハッとして弟の顔を見た。

 ブロドは何も言わず、瞳を伏せて首を横に振った。何があったかわからないが、少なくともこのままチャスにこのメモリアを握らせておくわけにはいかない、そう思った。


 すると、ぎゅうと固く握っていた手をチャスは恐る恐る緩め、そしてするりとその瓶をブロドに奪われるがままにして。


「…………」


 そのまま、チャスは無言で俯いてしまった。


 下を向いて黙り込んだチャスが気になったが、ブロド何も言わずに瓶へと視線をやった。

 瓶を握る指で意識して記憶を見たいと望む。すると、脳内に映像が流れた。いつものことだ。


「――!?」


 ……いつものこと、だったのだが。


「おいおい、ブロドまでどうした、そんな顔して。一体何があったら二人してそんな顔になるんだ?」


 クーは双子のその行動に疑問符を浮かべて、そう尋ねた。

 その呑気な訊き方に、瓶を握ったままブロドは固く目を閉じ、――青筋を浮かべた。


「――てっめぇ、ふざっけんなクー!!」


 これは、チャスに見せてはいけない記憶だったのだ。

 ブロドは躊躇いなくクーに拳を繰り出した。


「はぁ? って、おっと!」


 クーはブロドのパンチを上半身を逸らして難なく避けた後、状況がわからないという表情を浮かべた。


「いきなり何さ」

「……マジでお前、本当に腹が立つな。いいからとりあえず殴られろ」

「はいそうですかーってならないから!」


 また殴りかかって来るブロド落ち着かせようとどうどうとするも、ブロドは普段日じゃないほどに怒っていた。


「お前がオレにこれを渡せばこうはならなかった! チャスが見ちまっただろーが!」

「君たちがどっちを選ぶかなんて、俺がわかるわけないでしょ」

「黙れ! とにかく殴られてチャスに謝れ!」

「話が見えないんだけど!」

「……二人でそうやってなさいよ」


 ブロドとクーはピタリと言い争いをやめた。間に座る、声の主を見る。

 チャスは未だに俯いていたが、彼女の声のトーンは、どう聞いても冷たかった。


(あ、これ駄目なやつ……)


 チャスが、こうも無感情にも聞こえる声を出すときは色々と、まぁ相当に時である。本気で怒ると、怒鳴らないあれだ。


「……チャス。気持ちはわかるけど、今見たのは忘れろよ」


 ブロドは、つい今しがたの怒りがなかったかのように感情を抑えた声を出した。とりあえずチャスにも、落ち着てもらわなくてはならない。


「…………」

「クーはオレらみたいに原料読めねぇんだし、わかってたらお前にあんなもの見せようとはしなかったって」

「…………」

「……チャス」


 ブロドが最後に弱々しく名前を呼ぶが、チャスはそれにも答えない。

 返事の代わりに「クーと遊んでなさいよ、ブロド」とだけ呟いて、その場から立ち上がって、止める間もなくクーの執務室から出て行った。

 何もできないでいる男二人を置いて、パタンと無情にも静かに扉が閉まった。


「チャス! おい!」


 チャスが、行ってしまった。ブロドは、間違いなく最近で一番、腹が立った。クーと、それから自分自身に。


「ええっと、どういうこと……?」


 状況が把握できていないクーは、今までにない双子の行動に、本当にただ疑問を言うことしかできない。

 こうなっては仕方がない。ブロドは表情筋を無理やり使うのを諦めて、ぶすっとしながらも答えてやることにした。


「……男目線での、恋人との記憶」


 その一言で、クーは「ああ、なるほど」と腑に落ちたように何度も頷いた。まるで大した事なんてないかのように。


「恋人とやってるとこでも――おっ、と」

「いい大人がわざわざ口に出すんじゃねぇ」


 つま先を思いっきり踏みつかれそうになって、クーは足を器用に横へと引く。ブロドの足は地団駄を踏んだだけになった。


「そのいい大人にすぐ手をだすんじゃないよ、弟クン。本気で踏もうとしたでしょ」


 クーはにやりと横に座るブロドを見下ろした。その態度がいつも通り過ぎて、ブロドは舌打ちをする。


「別に他意はないって。男同士だしダイレクトに確認した方が早いと思っ――」

「黙れ」

「わかったわかった、この手の話題は無しね。りょーかい」


 とはいえ、もう既に一番見られたくないチャスは見てしまっている。

 ブロドは深く深く溜息をついた。「あああ……最悪だ」と口ごもる。何が好きで、男目線でのそういう場面を体感しなきゃいけないのだ。

 クーはブロドのその様子を見て、笑顔の仮面を剥がして腕を組んだ。


「にしても、チャスが先に読んじゃったのは痛いなぁ」

「……全くだ」

「年頃の女の子がああいうの見れば、あの反応にもなるか」


 ブロドは口を噤む。

 チャスが途中までしか見ていないのだとしたらまだマシだが、ブロドはかなり高速で読んでしまった。

 あの男は、通常の行為の後に加えて、なかなかに過激なこともやっていた。


(……そこまでチャスが見ちまってたらいよいよ数日は家出になっちまう)


 クーも言った通り、15歳という年齢であれは絶妙にきつい。それがわかるからこそ、すぐに追いかけて話をする気も起きにくいというもの。

 ブロドは頭をガシガシと掻いた。


「ああっ、くそっ」

「まぁ、少し頭を冷やす時間が必要でしょ。しばらく一人にさせてあげなよ」

「……」


 それは、至極最もだ。ブロドだって、どういう顔をして話せばいいのかわからない。年頃の性別が異なる姉弟同士、扱いにくい話題だ。


「……そうする」


 ブロドがため息交じりにそう言うと、クーはブロドの肩を抱いた。

 不可抗力だったとはいえ、クー以外に怒りのぶつけ先がない今、この馴れ馴れしさはうざすぎるだけだ。ブロドは嫌そうに離れようとするのだが、その前にクーがブロドの前にメモリアを三つとも置いた。


「それまでいつも通り、原料読んでくれるよね?」


――ああ、やっぱり一発殴らないと気が済まない。

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