第10話 オークション②

「えっ、きゃあ!」


 会場がメモリアの入札で盛り上がっている中、チャスはわざとらしく悲鳴を上げて、盆を落とし尻もちをついた。


 がしゃんと物を落とす音とガラスが割れた音が響き渡り、入札の声は一気に静まり返る。何事かと誰かが口にする前に、チャスは今しがたグラスを渡した女の椅子の下を指さした。


「ちょっと、何よあな――」

「うわぁあ! け、煙だ!」


 給仕係の粗相に怒ろうとした女の言葉を遮ったのは、後ろに座っていた男の大声だった。

 大慌てで立ち上がった大柄なその男も指を向けた先には、煙を上げて徐々に火が膨らむ塊があった。


「きゃああああ! ちょっと、早くどうにかして!」

「お、奥様、ひとまず火から離れてください!」


 使用人が急いで駆け寄ってくるが、チャスが盆を落として零した蒸留酒が絨毯とドレスの裾を濡らし、火の拡大が急速に進む。


「ドレスに火がっ!」

「早くこちらへ!」

「い、いやぁ!」

「奥様! だ、誰か水を!」


 取り乱した女は、パニックを起こし火元から離れることができない。見かねた使用人が慌てて近づき、女の肩を抱いて火元から離れさせた。

 しかし、一度酒が浸み込んだドレスの火は簡単には消えなかった。


 悲鳴と大声が響き渡る中、チャスは腰を低くし、客の合間を縫って演台へと近づいていく。


 この部屋は使用人がほとんどおらず、また水はチャスが持ってきた2杯分のデキャンタしかない。あれだけでは消えない火の量だから、しばらく混乱が続くはずだ。


(うまくいったわ)


 チャスは、火をつけた一本のマッチを箱に戻し、その上から酒に濡れたハンカチを被せて女の椅子の下へと落としたのだった。


 火がついたマッチを箱に戻す時、他のマッチとは反対の向きで入れて他のマッチの軸木じくぎに火があたるようにした。軸木に直接火をつけても一瞬火が付くだけでそう簡単に燃えない。火をつけた一本がゆっくりと自分の軸木を辿り、他のマッチの頭薬とうやくに火が移るまでに時間差ができて、グラスを渡すまで時間が稼げたというわけだ。


 そこそこマッチの数もあったおかげで、箱の内側にも燃え移る前に間に合った。だいぶ賭けの部分もあったが、万一途中で発火したら急に何かが燃えたことにして騒ごうと思っていた。

 ちょうど蒸留酒もあり、適当に零せば勝手に引火するだろうと踏んだのも吉と出た。


 自分の機転を褒めながら、チャスは演台の後ろに身を隠した。頭上に手を伸ばし、卓上にあるはずの紙を引く。


(これだ。ええっと)


 紙には、20本のメモリアの配置の絵と、それぞれの下に属性が書かれている。しかも驚くべきことに、全てがの情報だ。やはり、競売人はこれを読んでいるだけだった。

 チャスは眉を顰めた。

 クーの下で原料ラベル読みの雇用契約をする際にも説明したが、メモリアを飲んで見える記憶は、。メモリアを飲んでも、本来の記憶の持ち主自身を見ることはできない。同様に原料を読んだとしても、持ち主の特徴を完全に知ることはできないはず、なのに。


(どうやってこれを――?)


 少なくともチャスがメモリアだけを渡されても、こんなに特徴の列挙はできない。というか、こんな方法は考えたこともなかった。

 確かに、接種した人と記憶の持ち主の特徴条件が合えば合うほど、その記憶の体感がよりリアルになるため味が良くなることは間違いない。競売人が使った「効能の最大化」という表現は言い得て妙だが、最高潮の快楽を得るのであればこの情報は必須だろう。


「これは、ブロドと話し合わないと……」


 このメモリアは、おそらく双子が生成したものではない。

 となると、力を与えたかつての仲間たちの仕業かと考えるのが自然なのだが、こんな手段は教わっていない。力を持っていた仲間の中で、持ち主の情報を知れるなんて話聞いたこともなかった。


 もしメモリアの生成が彼ら以外にもできるのだとしたら、色々と面倒なことになる。

 現在、ブロドとチャスの間ではメモリアを作ることは休止中。食い扶持のために行っていたが、それはクーによって職を得ているうちは問題なくなったからだ。だがその職も無くなれば、おそらくまたメモリアで生計を立てることになるし、それ以前にメズ以外に力がある人間がいるのなら、メズたちにも知らせた方がいい。


 チャスが頭を悩ませていると、不意に、頭上に影が下りた。


「!」


 油断していたことにはっとしたチャスは、瞬時にその場から離れるために横に転がった。

 直後、ガン! という鈍い音が聞こえたと同時、演台は横に倒れていた。

 チャスはしゃがんだまま、演台を倒した男を睨む。


「お前、何者だ」

「……」

「だんまりか。それなら吐かせるまでだ」


 イオルドは、言い終わるが否や、チャス目掛けてナイフを振り下ろしてくる。

 大振りなその動きを避け、チャスも膝の上に隠していたナイフを手に取った。隠しナイフを仕込めるブーツは、制服の一環で靴まで支給されたことで履けなかった。


「ナイフまで仕込んでいるとは。女はスカートのせいで、膝までの足の形がわからんのが警備上いただけないな」


 チャスのことを馬鹿にしているのか、余裕を崩さない。

 イオルドの後ろでは火が本格的に広がって、客が慌てふためき出口の扉に押しかけているのが見える。が、人数がほとんど減っていなかった。


「このままだと、みんなで煙を吸うことになっちゃうわよ」

「お前が起こした煙でな。言っただろう、ここは秘密のオークション。秘密を守るために騒がれては困るんだ」


 そのために客を出さないなんてどうかしてる。まだ出入口付近までは大した量の煙が回っていないようだが、時間の問題だ。


(ふざけてる……!)


 チャスが小声で悪態をついていると、イオルドは片方の眉を吊り上げて、高い位置からチャスを見下ろした。


「サリーというのもどうせ偽名だろう。もう一度聞く、何者だ?」

「……答える気はないわ」


 掌で、握り慣れたナイフの柄の感触を確かめる。大丈夫。

 イオルドは身長は高く腕も長いが、戦い慣れている体には見えない。スーツを着ているからはっきりとはわからないが、筋肉量は普通から痩せ気味の部類だ。


「ふん、それなら無理やりにでも聞くしかないな」


 チャスは、イオルドの右側に向かって素早く飛び込んだ。

 奴の間合いに潜り込んで、近接戦で一気に攻める。わき腹を狙って、小さくナイフを振った。

 けれどイオルドは、すいと体を横にずらして、チャスの攻撃を避けた。

 一発目は大抵交わされる。チャスも避けられることを見越して、より身を低くしてターンし、その勢いで脛を狙ってまたナイフを振った。しかし、イオルドは今度は足を後ろへ下げ、数歩分の差を作った。


(まずい――!)


 この距離では、チャスのリーチでは届かず、イオルドは届くリーチだ。

 またもやナイフを振り下ろされることを警戒して、チャスも後ろへと素早く跳んだ。が、やって来たナイフは上からではなく、正面からの突きだった。反射的にチャスは身を伏せてそれを避ける。

 床に手のひらをついて衝撃を緩和し、そのまま足と手で地面を蹴って、軽やかに、しかし全体重をかけて、イオルドの懐に飛び込んだ。


「う、っ!」


 まさか正面衝突が来るとは思っていなかったのだろう。

 体当たりで倒れたイオルドの首に、問答無用でナイフを突きつけた。


「動かないで。首を切る方が早いわ」

「――っ」

「あたしもあんたを侮っていたけど、あんたもあたしを侮っていたようね」


 普通の秘書の動きではない。きちんと戦闘訓練を受けている人間の動きだった。

 敏捷性は劣るが、チャスのナイフの攻撃は読み切って避けていた。だから、チャスは戦闘慣れした場面だからこそ使える、相手の意表を突く体当たりを選んだ。


「聞きたいことがあるの。あのメモリアは、いったいどこで手に入れたの?」

「はっ! 答えると思うか?」

「答えたくなるようにしてあげる」


 先程とは逆のやり取りにチャスが悪い笑みを浮かべた時、両隣から足音がしてきた。

 イオルドの首からナイフを離さずにちらりと周りを見れば、使用人のうち、ナイフを持っているとチャスが目をつけていた二人だった。


「げ!」


 このままイオルドを人質にしたいところだが、この使用人たち、他に目もくれず突っ込んでくる!


 動かないとこっちがやられてしまうと、チャスは仕方なしにイオルドの上から退き、やって来た新手2人に対峙する。二人とも腰が引けていて、既に額に汗が浮いていた。イオルドに比べる全く強くなさそうだ。

 そう確信して、チャスは近くにいた方の足を狙おうと飛び込もうと踏ん張り――、


「わっ!」


 どん、と盛大に顔面から床にぶつかった。

 足首を掴まれた感覚。鼻頭の痛みに耐えながらそこを見ると、這いつくばったイオルドが顔を赤くした必死の形相でチャスの足首を掴んでいた。


「このっ」


 掴まれていない左足でその手を蹴りつけようとしたが、それより先に後から来た使用人二人によって体を押さえつけられた。


「離して!」

「よ、よくやった……! 絶対に離すな!」

「は、はい!」


 チャスはじたばたと暴れるも、体は小柄、それに女である。大人の男3人で押さえつけられては、純粋な力の差で勝てない。

 手の甲も踏まれ、その拍子に手放してしまったナイフが遠くへ蹴られてしまった。いよいよ本格的にまずい。


「何すんのよ!」

「黙れ、下手人!」

「誰が下手人よ――っ、ごほっ、ごほっ」


 しかも争ってるうちに煙がこちらにも回ってきた。

 汚い言葉を口走りながら抵抗するも、抑える力は緩まないうえに、騒いだ喉に煙が入るとせき込んでしまう。


 体格では勝てない分を技術で補ってきたのに、単純に力任せではどう足掻いてもチャスに勝ち目はない。


「げほっ、イ、イオルド様、この女は……」


 チャスの両手首が腰の方へ回され、使用人どちらかによって固く掴まれた。イオルドは掴んでいたチャスの右足を、もう片方の足を押さえていた使用人に押さえつけさせ立ち上がった。

 ナイフを当てられていた首筋をさすりながらチャスを睥睨した。


「旦那様へ突き出す。それまでお前たち二人で抑えていろ。私は、お客様に沈黙を約束させないとこの部屋から出せない」


 そうして、入り口にたむろしている客に向かって歩いていく。争っている間も、向こうは向こうでパニック状態が続いていて、こちらを見ている者などいないようだった。


(これは、かなり、良くない……)


 喉を刺す痛みの最中、チャスは己の現状をそう評したのだった。

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