第5話 日常は終わりを告げ(2/4)
初めて殺したのは、縁もゆかりもない赤の他人だった。
このイーストエンドの不条理は今に始まったことではない。
晴らせぬ恨みを晴らしてくれる、始末屋の需要は昔からあった。
『……はぁ……はぁ……』
人を刺し貫いた感覚が今も手に残り続けている。
ベルーガの修めたカスミ流は対人特化。相手の油断を誘い、隙を突き致命傷を与える。
頭では理解しているつもりだったが、いざ実践してみるとこうも心に来るのか。
『……はぁ……ふぅ……』
刀を血振るいし、納刀。
これが人を殺す、という事か。
心の底から薄気味悪さが消えず、もうこれっきりにしてしまいたい気持ちで一杯だ。
それでも、殺さなくてはならない相手がいる。
勇敢な父を利用するだけ利用し、死に追いやった“オルガ”という名の警邏官。
少なくとも、その男を殺すまで自分は“始末屋”であり続けなくてはならないのだ。
『……さて、と』
ベルーガは静かに現場を後にした。
薄気味悪さは帰ってからも消えず、しばらく彼の心に残り続けるのだった。
誰が辞めることになろうと、警邏隊の仕事がなくなるわけではない。
ベルーガは新たな事件と向き合うこととなる。
「……連続失踪事件か……ふぁ」
アリスの代わりに仕事をすることになった警邏官は、ハナからベルーガを戦力として数えておらず単独で捜査に向かっていた。
今まで構ってくれていたアリスの方が異端であったことが分かる。
「……妙だな」
ベルーガは事件の概要を見て妙な既視感を覚える。
先日の“仕事”で葬り去った人形師の一派。
彼らを始末したことで事件は解決したはずであった。
だが蓋を開ければどうだろうか?
再び失踪者が増え始めてきているのである。
「……人形師と同じ稼業が居たのか?」
腕を組み考えを進めるベルーガ。
可能性として考えられるのは、人形師と同じ稼業の者が他にもおり、その者が失踪に関わっているという事。
だが人間を剥製にしてしまうという悍ましいことをする人間が何人もいて欲しくはない。
「もしくは、人身売買か……」
もう一つは人形師の稼業は氷山の一角にすぎず、他にも人身売買をしていた者がいる可能性だ。
あくまで人形師はそういった人身売買の組織から人買いをしていただけで、根本から事件は解決していないのではないか。
「……はぁ」
こうして一人で考え事をしていると、アリスが決まって声をかけてくれたものだが、既に彼女は捜査に加わらないように采配されている。
「調子、狂うなぁ……」
一人は気楽でいい。
だがどうにも落ち着かない。
――『ほら、君だってアリス君に好意を寄せていただろう?』
――『貴方にも気が合ったのではなくて?』
「……そういうのじゃ、ないと思うんだが」
ベルーガは義妹のメラニアに言い寄られなければ生涯独身を貫くつもりだった。
そもそも論として、人を殺めた人間が結ばれ幸せになっていいはずがない。
人を殺めた人間に子を授かる資格などあるはずがない。
だからこそ、生涯を一人で生きていく。
初めて人を殺した瞬間から、その覚悟でいるのだ。
「――あんたを愛してる? 冗談じゃないわ」
「……へ?」
男は愛する妻に平手で打たれ困惑している。
数日間行方不明でその身を案じていたが、無事に帰ってきてくれた。その矢先の出来事だった。
「どうかしてたわ。こんな男を愛していたって、少しでも思っていただなんて」
彼女の目には光が灯っていなかった。どこか言葉もぎこちなく、まるで誰かに言わされているかのようだった。
「そういうわけだから。さようなら」
「ま、待ってくれ……! 一体君に何があったんだ?」
男は妻の言葉が信じられず縋りつく。
「何もないわよ。気持ち悪いから触らないでくれない?」
まるで汚物を振り払うかのような仕草に彼の心は大いに傷ついた。
「あー吐きそう。頼むから早く消えてくれない?」
男はがくり、と膝を付いた。
きっと妻に何かあったのだ。
何かの事件に巻き込まれたのだ。
そうでなければ――虚ろな瞳からこぼれる涙の理由が説明できない。
「……っ」
男は何もできず、その場で膝を付いてうなだれていた。
その一部始終を、アリスの婚約者リカールは目撃していた。
「っははははは! 見た? あの表情!」
「ええ、ええ……まことに滑稽ですな」
主の悪行を諫めるはずの執事も同調して愉快そうに笑っている。
「でも、人間ってすごいなぁ……絶望したのは最初のことだけで、その後はすぐに異変を察した」
男は妻に突き放され絶望するも、彼女の異変を敏感に察知した。
愛する妻がそんなことを言うはずがない。本心からの言葉であれば涙など流すはずはない、と。
起こった出来事に対して都合のいい解釈をした。
「坊ちゃま。人間とは弱い生き物、都合よく解釈しなければ心が保てぬのです」
「そうだね。僕もそう思う。でもさ、人の心って面白いよね」
彼らの下に夫を裏切った女性が戻ってくる。
彼女の異変はすべてリカールが仕組んだもの。
人格を沈める薬で女性の人格を沈めて操り人形にし、夫を裏切るように仕向けたのだ。
「意志は全て沈めたはずなのに、彼女はこうして心を露にしたんだ!」
「……薬の効果が不完全だったのだと、私は思いますが」
彼の使った薬はあくまで試作品だ。
表記上の効能と実際の効能が合っていない可能性も考えられる。
「君は本当に夢が無いね。僕はこれこそが愛なんだと思っているよ」
人は“愛している”という言葉で自分の愛情を伝える。
たとえその言葉の真意が違ったとしても、その言葉でもって愛を判断する。
だからこそ、言葉で飾れぬ状況――例えば命がかかっている状況などでその真意が露になる。
本当に心の底から愛しているというのなら、それ相応の行動ができるはずだ。
本当に心の底から愛しているというのなら、例え意志を奪われたとしても抵抗ができる……かもしれない。
「ああ。本当に面白いな……僕も、そんな愛が欲しいなぁ」
アリスの前では壮大な理想を語っていたリカールだったが、本質は結局これだ。
弱者をいたぶって揶揄う権力者。
世のため人の為ではなく自分の欲を満たすために動く自己中心的な子供。
彼は婚約者となる女性からの愛を期待し、無邪気な笑顔を浮かべるのだった。
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