第8話 天地が返るほどの奇跡(5/5)

 ツグミはムクの母親、スズに呼び出され生きた心地がしなかった。

 遂にこの時が来てしまったのだ。

 主の罪を清算しなければならない、この時が。


「――もう貴女と出会ってから15年になるのね」

「……はい」


 エンベリザ家に、ムクに仕え始めたのはツグミが5歳の頃だった。

 当時のムクは病弱で儚く、毎日のように体を壊していたためつきっきりで看病をしたものだ。

 隣には妹のククルもおり、今思えばあの時が一番幸せだったかもしれない。

 辛く、苦しくとも、その奥底には幸せがあった。

 そう、今とは違い幸せが確かにあったのだ。


「……ムクが、とても悍ましい行為に手を染めていることは知っています。でもね、私はあの子に幸せになって欲しい」


 スローター。

 大量殺人を意味する名をつけられた娘の悍ましい趣味をスズは知っていた。

 とても人には言えない、残虐な行為。

 だが彼女は娘が元気で健やかに育ち、無事に成人を迎えられた喜びの方が大きかった。大人になってくれた、それだけでいい。


「クズリさんとの縁談も順調に進んでいる……だからこそ、すべての憂いを無くしたい」


 ツグミは覚悟が決まる音を聞いた。

 そうだ、これは罪の清算だ。

 ならば――すべてを受け入れよう。


「ツグミ――ムクのために、すべての罪を被って死んでくれる?」


 あまりにも残酷な命令に、彼女は静かに瞳を閉じて頭を垂れた。


「はい。承知いたしました」




 かつてないほどの幸せ。

 ムクはいつしか、クズリとのデートが何よりの楽しみとなっていた。

 芝居見物に向かう道すがら、馬車で揺られてるだけのこの時間も幸せだ。

 でも、なぜか胸の靄は晴れない。


「ねえクズリさん。私の事、どう思ってるのかしら?」


 漠然とした不安が胸を締め付けている。

 きっとのこれは、元凶カレンを亡き者にしたところで解決しない。


「どう……ってもなァ……」


 クズリは本心を伝えることが気恥ずかしいのか、どこを見るとなく外へ視線を向けた。


「……正直、悪くない。趣味も合うし、一緒に居て楽しい。見合い相手がアンタで良かったと思ってる」

「……私の事、好き?」


 彼女ははっ、と口を押えた。

 どうしてこの口はそんなことを尋ねるのだろう?

 無意識のうちに口走ってしまっていた。


「あー……嫌いじゃねェ。お前と結婚したら、それなりに楽しくやれそうだと思ってるさ」

「でも、貴方昨日の」

「勘違いすんじゃねェよ……カレンは、その……」


 クズリは言葉を選ぶように瞳をきつく閉じるも、都合のいい言い訳が思い浮かぶことはなかった。


「……気が無いと言えば、嘘になる」


 どうして、と叫びたくなる気持ちをムクはぐっとこらえる。

 彼がとても寂しそうな表情を浮かべていたからだ。


「……なんだろうな。上手くは言えねえェけど、アイツと話してると、心が穏やかになるんだ。アイツは、俺の事を見てくれた、初めての人だ。家柄目当てで近寄ってきた癖に、事情を知った途端に離れていったヤツとは違った」


 同じだ、と彼女は感じた。

 クズリといると、なぜだか心が穏やかになる。イライラした気持ちがすぅ、と晴れていくような、楽しい気持ちになれる。

 理屈ではない、本能的な部分で惹かれているのだ。その気持ちは痛いほどに理解できた。だがその向き先が自分に向いていないことが、無性に腹立たしくもあった。


「悪いな。お前の前で他の女の話をしちまった。忘れてくれ」

「……忘れない」


 ムクは静かにクズリの肩を抱く。彼は戸惑ったように視線を彼女の方へ向ける。

 目と目が合い、二人の動悸が高鳴っていく。そして、ゆっくりと唇を近づけ――


「――ウルヴァ様!?」


 だが甘い雰囲気は老人の叫びによってぶち壊された。

 腰の曲がり切った老人は驚くべき素早さで馬車の後部に飛びついてくる。御者は大慌てで馬車を止めた。


「おお! 間違いない! ウルヴァ様じゃぁ……」

「……誰だ、アンタ」


 クズリは自分を見て涙を流す老人を見て戸惑いを隠せない。しきりに呼ばれる名は彼の曽祖父――家を傾かせるほどの浪費家だった男の名だ。


「何をおっしゃいます! ワシは……どんなに耄碌しようとも、あの日の御恩だけは忘れておりませぬ!」

「――もっ! 申し訳ありませんっ!」


 涙を流しながら五体投地しようとしている老人に駆け寄る女性――娘か、年齢を考えると孫娘なのかもしれない。

 彼女は老人の隣で深々と頭を下げ、非礼を詫びる。


「おじいちゃんはもうボケがひどくて、今と昔の区別がついていないんです! だから、だからどうかご容赦を!」

「たわけ! ウルヴァ様がそんな非道なことをするわけなかろう!」

「ま、待ってくれ」


 事態に追いつけていないクズリは馬車から降りると、老人の隣で頭を下げている女性に問いかける。


「ウルヴァはウチのひい爺さんの名前だ。俺はひ孫のクズリだ。ウチのひい爺さんが何かしたのか……?」


 老人は濁った眼でジッ、とクズリを見つめる。


「……ひまご……? 何をおっしゃいます……ああ、お変わりがないようで……ああ、忘れもしませぬ……あの嵐の後、すべてを失ったワシらのために、私財を全て投げうって助けてくださったこと、自ら率先して復興をお助けくだすったこと、なんとお礼を申し上げてよいのか」


 聞いたこともない話でクズリはますます混乱する。

 曽祖父――ウルヴァは確かにウィーゼル家の財産を食いつぶし、果てに莫大な借金を残したどうしようもない暗君だったことは知っている。

 だが、人助けをしていたと聞いたこともなかった。


「……な、なァ……本当なのか、この話」

「は、はい。私もおじいちゃんから何度も聞かされた話です。52年前の大嵐の時、ウルヴァ様が全財産を投げうって助けてくれたって」


 クズリの頭は混乱状態に陥っていた。

 何が何だか理解できず、夢でも見ているような心地悪さに襲われる。


「“こんな些細な事、忘れていい。その代わり、の男となれ”と、貴方様の言葉を胸に、今日まで生きてまいりました……! ありがとうございます……! 本当に、ありがとうございました……!」


 額をこすりつけ涙を流す老人を残し、クズリは後ずさる様にして馬車に戻ると、頭を抱えて座り込む。


「……何だったの、あのジジイ」

「……さあ、な」


 ムクはデートの邪魔をされてご立腹だった。

 クズリはもはやそれどころではなく、衝撃の事実を飲み込むので精いっぱいだった。





 胸の動悸は一向に収まる気配がない。

 手袋越しに感じるボウガンの無機質な感触は、どうしようもなく緊張を高まらせる。

 人を傷つける必要はない。目的はあくまでスローターすべての罪を背負うことなのだから。

 本物であると思わせ、捕まる事――それだけでいいのだ。


「ふぅ……んっ」


 ツグミは襟巻で口元を覆い隠すと、ゆっくりとボウガンを構え暗がりから通りを伺う。

 狙うなら若者がいいか、もし当ててしまってもすぐに回復できるはずだ。


「――な、何をしているんですか?」


 声をかけられ彼女は肩を跳ねさせる。その拍子に指に力が入って引き金を引いてしまう。放たれた矢はあらぬ方向へ飛んでいき、誰も傷つけることはなかった。

 振り向くと、そこには警邏隊見習の少年がいた。恐らく近道をしようとしたのだろう。ついでに悪事を見つけられれば儲け物と思っていたのが、思わぬ大当たりを引いてしまった形になる。


 「――ッ!」


 ツグミは思わず逃げ出してしまった。

 いや、これでいい――彼女は自分に言い聞かせる。

 素直に“自分はスローターだから捕まえてくれ”と訴えたところで一笑に付されて終わりだ。

 ならば逃げよう。

 逃げて、本物だと思わせよう。


「あっ! 待ちなさい!」


 見習の少年はすかさず彼女を追いかける。

 振り切ってしまわぬよう、ほどほどの速さで駆ける。早く、早く警邏官を見つけなくては。

 それも自分の企みを見抜けなさそうな、間抜けそうな警邏官を。


「――ふぃ……食った食った。疲れてるときは、ここの牛めしが一番だ」


 いた。間抜けそうな警邏官。

 食事終わりなのか、楊枝を咥えた間抜けそうな警邏官――ベルーガを見つけたツグミはボウガンを投げ捨てると腰に携えていたナイフを引き抜き、周囲をけん制するように振り回す。


「あっ! 旦那! 怪しい奴です!」

「へっ? えっ?」


 虚を突かれたベルーガは戸惑ったようにツグミを見つめる。

 彼女は立ちはだかってきた――正確には自分から突撃しようとしているが――警邏官に向けてナイフを振りかぶる。


「しっ、死ねぇっ!」

「わっ!」


 襲い掛かってきた犯人に不覚を取るほどベルーガは落ちぶれちゃいない。

 咄嗟にナイフを持つツグミの手首を払い、そのまま合気の要領で彼女を組み伏せる。


「ボウガン……に、ナイフ……まさか」

「……そのまさか、よ」


 ツグミは精一杯悔しそうな表情を作ると、大人しくベルーガに捕らえられるのだった。

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