第9話 役者のカリスマ(3/4)
落ち着け、とリリィは自分に言い聞かせる。
こんな事大したことは無いのだ。修行のために乗り越えてきた数々の試練に比べれば児戯に等しい。
ゆっくりと息を吸い、吐く。
深呼吸をしてなお動機は治まらず手の震えも止まらない。
「……あっ」
手に持っていた糸は針穴を目前としてあらぬ方向へズレてしまう。
「おいお〜い。何度目だ? 手伝うって意気込んでたくせに糸通しすらマトモにできねぇの?」
グロリア・レジーナの作業室。
カレンを怪我させたお詫びとして臨時の針子になることを申し出たリリィだったが、未だに糸通しができず悪戦苦闘していた。
不器用すぎるリリィをからかいカレンは物差しでその頬をグリグリとつつく。
「……バカにしないで下さいな! このくら……あっ」
ムキになって針と糸を動かすリリィだったが、焦れば焦るほど糸は意地悪をするようにうねる。
せっかちな彼女に繊細な針仕事は向いていないようだった。既に額には青筋が浮かんでおり、爆発寸前だった。
「アドバイス、してやろうか?」
「余計なお世話ですっ!」
リリィは是が非でも見返してやろうと糸を動かすが――無情にも糸は針穴を掠めもしなかった。
「っ大体、こんなもの出来たからって何なんですッ! そんなに嬉しいですかっ!?」
「……いや、埋め合わせがしたいって言ったのそっちだろ」
遂に諦めリリィは逆ギレした。カレンは少しからかい過ぎたと反省した。
「…………ではこうしましょう。私が貴女の指図で縫います。だから糸通しだけはお願いしますわ」
「やめとく。嫌な予感がするから仕立てには関わらないでくれ」
「……失礼ですわね。私だって裁縫の一つや二つ、簡単にできますわ」
「できるやつはもっと簡単に糸通せるだろ」
これに関してはカレンの言い分が正しそうだった。
第一、彼女の仕立ての腕で成り立っている商売なのだから、他の人間が代わりに仕立てて成り立つようなものではないだろう。
「人の好意を無碍に扱わないでいただけます? 折角こちらが手助けすると」
「そもそもアタシをこんなにしたのテメエだろうが。恥ずかしいなら芝居なんか観るんじゃねぇっての」
此度の口喧嘩はリリィの負けだった。
彼女は何も言い返せなくなり押し黙ってしまう。
「あーあ。あんな作り話を観る奴の気が知れねぇよ。なんでこの暗~い世の中で更に暗い話を観たがるんだか」
「……その言い草。さては芝居を観たこと無いのですね?」
カレンはしまった、と顔を引きつらせる。
どうやら余計な一言でリリィに何かに火をつけてしまったようだった。
「よろしい! では今から観劇としましょう。ああ、チケット代は私が払いますので。さ、そうと決まれば早速行きますわよ!」
「えっいやアタシは行くなんて――ったたたた!」
善は急げとばかりにカレンは劇場へ連行されていくのだった。
スタークからの証言が得られず捜査は振り出しに戻ってしまったかに見えた。
「――あった。これだ」
南地区の司法所に赴いていたベルーガは記録室で過去の事件を調べていた。
警邏隊で解決――あるいはもみ消された事件の報告書は司法所に届けられ、記録室で一定期間保管される。
南地区の全支部の捜査記録が集まるため、同様の事件が起きていないか調べるのにうってつけの場所なのだ。
「場所は……第三地区、イーオ劇場近くの路地裏」
劇場近く――確かに歓楽街であり、役者御用達の店もあると聞く。
公演が終わり店を貸し切りにして打ち上げ――なんてこともざらにあるという。
もしスタークがイーオ劇場で公演された芝居に出場し、その足で事に及んでいたとしたら。
「なあベルーガ。どうしてそこまでスタークに執着するんだ? 確かに目撃証言としてあるし、実際に襲われたという証言もあるが……後者はそもそも裏取りができていないじゃないか」
アリスも資料探しを手伝っていたが、彼女はスタークが悪ではないと考え――否、そうであって欲しいと思っていた。
役者のカリスマは公平な判断を誤らせるほどであった。
「アリスさん。役者に惚れるのは結構ですが、判断を誤ることが有っちゃいけないでしょ」
「……それはお前の方じゃないのか?」
彼女は自分の口から出た言葉に驚き思わず体を強張らせる。
何か胸の奥に湧いてきているどす黒い衝動に背中を押されているように、言葉があふれ出るように口からこぼれ出る。
「あんな可愛らしい女性に縋りつかれて、絆されているのはお前の方なんじゃないのか? 言い方は悪いが、彼女は精神が錯乱していて正しい証言をしていたかどうか怪しい。信じる方がどうかしてるんじゃないか?」
どうしてこんな言葉が飛び出たのか、彼女自身理解できなかった。
だが口は反射的に言葉を紡いでいた。
「アリスさん」
諭すようなベルーガの声に彼女ははっ、と我に返る。
「私はね、無能だの昼行燈だの皆から馬鹿にされてますけどね。本当に相手が助けを求めているかどうかくらいはわかります」
彼は資料を静かに棚に戻すと、小さくため息をつく。
「警邏官が上の指示で悪をもみ消すことは日常茶飯事です。でもね、それが積極的な物であっちゃいけないと思いますよ」
強きを慮り弱きを見捨てる。警邏隊はろくに悪事を取り締まれないと揶揄されているが、その心情は不本意そのもの。見逃したくて見逃しているわけではない。
だが今のアリスはそうではない。
推しとなった役者が悪であって欲しくないと自分から目を閉じ見逃そうと、積極的に悪事を見逃そうとしてしまっているのだ。
「私はアリスさんに、それだけはしてほしくないと思ってます」
ベルーガは彼女の肩をポン、と叩くと一人資料室を後にする。
「……わかって、いるさ」
一人取り残されたアリスは静かにつぶやくも、それが言い訳にしかなっていないことを強く噛みしめるのだった。
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