第9話 物質と宗教

 「超仏教体験を経た後、マグマ溜りの『底』であの時経験したことは何だったのか理解したくてこの一年間、大学四年生の時に初めて研究に取り組んだ時みたいな気持ちで、仏教書を読み漁りました。その中に明治時代の仏教学者である井上円了という学者の書かれた書籍がありました。」

暁烏研究室での出来事の後、瀬尾は暁烏博士に連れられ研究室から退出し、私と市川は市川の居室へ移動していた。超仏教体験という不穏当な言葉が耳に残った。私は来客用ソファに座り、市川は自席のオフィスチェアーに座っていた。居室だけでなくJMEA の建物全体が静まりかえっている。すでに零時を過ぎていて、帰りの電車はもうないだろう。この時間まで残って研究に取り組んでいるものは数少ないが、わずかな学生だけは残っているかもしれない。

「掘削船に乗りマグマ溜りの『底』に到着した後、上部境界層にとらえられるという想定外の事態に掘削船内の五人は極度の緊張状態と絶望のはざまで試行錯誤していました。吉田さんの機転が働かなければ私達五人は生き埋めになっていたのは間違いないでしょう。それこそ地下深部の即身仏になってしまうところでした。あの時私達は冷静ではなかったのは明らかです。そして私達五人の科学者と技術者が共通の白昼夢を見たというのは紛れもない事実なのです。私はその白昼夢を超仏教体験と呼んでいます。」

「どういうことですか。」

少し前の会話から市川の話が理解できなくなっていた。この時点で一度会話に釘を打っておかないと二度と私の理解は及ばなくなり市川の大きな声の独り言が研究室に響くだけになってしまうと思い、ひと思いに私は声をあげようとしてところで、ひときわ大きな声を市川が張り上げた。

「妄想、幻想、宗教を拒んでいた私達科学者、技術者の集まりが地下深部において自然科学で決して説明できない現象を目の当たりにしたのです。」

「地下で何を見たのですか。」私はやっと市川に負けない程の大きな声で会話に応じた。心からの私の思いだった。

「地球全体から見たら私達が閉じ込められたのはゆで卵の殻と白身の間の薄膜のような部分ですが、地獄のような場所でした。掘削船外の状況を知ることができたのはあの採取窓だけです。窓から見える景色は赤く発光したマグマと時折発生するマグマ溜まりの上部璧の崩壊、湧昇メルトの上昇流と壁面に沿って降りる冷たい下降流の流れだけでした。それらの現象はとても美しく、地下深部のオーロラと私は自分の研究日誌に記録していました。これらの美しい現象は少なくとも極限状態に置かれた私の内の絶望という感情を一時でも忘れさせてくれました。しかしこの場所は、行くことを切望していながらも、閉じ込められてしまえばここはとても恐ろしい場所でした。そんな地獄で見たあの情景を単に白昼夢と言って切り捨てたり、極限状態が自らに投影してみせた無意識の産物と言って切り捨ててしまえばそれまでなのかもしれないのですが、私にはそう言って割り切ることはできなかった。」

市川の言っていることは私にはやはり理解できず、市川の思考は混濁しているようにも見えた。

「地獄のような場所で市川は何を見たの。」

私が口をはさんだところで市川の無意識の拡大は止まらないようで、私の言葉に反応することなく市川の大きすぎる独り言は止まらなかった。

「地下へと潜っていった先に悟りの境地があったのかもしれません。搭乗者五人はみな疲れ果てていました。エンジニアの二人と吉田さんはボーリング担当者として重責を背負い、掘削船内から外部へ働きかけられるあらゆる設備を確認しこの状況から逃れるための方策を考え続けていましたが妙案は浮かんでいないようでした。私と暁烏博士にはエンジニアリングの知識や技術はなく何も手伝うこともできません。掘削船には食料や燃料を含め十分な資材を持って潜っていたのですが地上へ戻ることができなくなれば、食糧の不足、燃料の不足のことを嫌でも考えざるを得なくなります。エンジニア二人が精神的に参ってきていることが私にも良くわかりました。私自身も個室に籠っていることが増え、このまま閉じ込められることを受け入れる以外にはないのだろうかと考えていました。」

「そんな状況は想像しただけでも発狂しそうだ。」それは私の心からの思いでした。

「次第に私は個室に籠っていることにすら恐怖を感じるようになっていました。掘削船の中でもより広い場所で過ごしたかったのです。私はこの掘削船の中で一番落ち着くと自分が思える場所を探し回りました。各人の個室がある3th-modには共有スペースがあるのですが、そこにいても当然落ち着きません。私以外の三人は必至で脱出の手段を考えているのですから。暁烏博士も私と同じく個室に籠っているようで、ほとんどその姿を見ることはありませんでした。うろうろしようとしても、狭い掘削船内部で他に移動する場所はありませんでした。私は必然的に自分の持ち場である4th-modの光学顕微鏡の前の机に座りました。ここは個室よりも広いのです。そしてここが一番落ち着くのだと気がつきました。その広さだけではなく分析機器と光学学顕微鏡とレードルサンプル、そして標本箱に囲まれたこの場所が私には一番落ち着いたのです。ぼーっと何も考えずに私はそこに座っていました。毎日その椅子に座り、これまでに作成した薄片サンプルを観察したり、採取窓からマグマ溜りの方をぼんやりと眺めていたりして、ぼんやりと一日を過ごしていました。」

「ちょっとまってください。」市川の長い話が続いており、まだまだ続きそうだったので、会話にくぎを刺したかったのだが、やはり市川の独り言は止まらなかった。

「ある日同じように採取窓の外を眺めていると赤熱の溶岩の中を斜長石が舞い散る中、遠くの方に小さく光る影が見えました。マグマ溜りの透過性は極めて低く、数m先の景色など到底見えないのですが、その時澄んだマグマの中数十m先が見通せて、その先に小さく光るものが見えたのです。初めはなんだろうと思って眺めていただけでしたが、数時間のうちに影が大きくなっているのがわかり、それが掘削船に近づいていることに気が付きました。次第にその形状がぼんやりと把握できるようになると、それは人が座ったような形をしていました。双眼鏡などこの掘削船には設置されておらず、また双眼鏡があったとしてもこの環境でそれを使うことはできないため、肉眼で見えるようになるまでは詳細を確認することはできませんでした。じっと眺めているとさらに数時間後に肉眼でも確認できるとことまで近づいてきました。人型であることは間違いなく、その人型の何かは大きな花弁の上に座っているようでした。そして嫋やかなゆったりとした布を体に纏っているように見ました。私はその人型の物体から目を離すことができなくなっていました。じっと近づいてくるその物体に視線を合わせていると、マグマから発せられる赤外光の熱に私の網膜が熱く焼けるようでしたが、視線を外すことはできなかったのです。さらにじっと採取窓に張り付いているとそれは間違いなく人が蓮華の上に座り、右手の平を掘削船の方に向け、左手指は印を結んでいました。なぜこんなところに人がいるのかと私ははっとしました。こんなところに人がいるはずがない、千二百℃にも及ぶこの極限環境に人がいるはずがないと私は自分が見たものを受け入れることができませんでした。しかし私の現実を受け入れられない感情を気にすることもなく、その人型の物体はさらに掘削船に近づいてきたのです。やっと私はその物体に視点を合わせて、網膜上、脳内では数時間前から理解していることをその場では受け入れることにしたのです。形状と言い、その御姿といい、それは如来であるのは明らかでした。またそれまでは気が付かなかったのですが、その如来の背後にはその十分の一程の大きさの数体の釈迦如来が同じように座して、掘削船の方を眺めているように私には見えました。如来は上半身には納衣を纏い、蓮華座で数万枚の花弁の上に座っていました。天上と地下。天国と地獄。歴史上、天国と地獄という対比の中では地下深部には地獄が存在するイメージがありました。研究者として嬉々として地下に潜っていった私や暁烏博士のような人間は一部の特殊な感覚を持った少数者なのでしょう。如来に出会ったことを私は掘削船内の誰にも言いませんでした。そして無事に地上へと戻ってくることができたわけです。地上に戻ってきてから地下で出会った如来のことをこっそりと暁烏博士に話しました。すると驚いたことに暁烏博士も同様に如来を見たと言ってきたのです。暁烏博士は他の搭乗者の三人にもそれとなくそのことについて探りを入れたらしいのですが、やはり三者ともマグマ溜りの『底』で如来を見たと言っていたようです。それを聞いた時に私は得も言われぬ気持ちになりました。皆同じ経験をしていたのです。私は地上に戻ってからあの採取窓から見た如来の姿を思い出し、その姿の如来を仏教辞典で調べて探すとあの小さな如来を数多く従え、蓮華座していた如来は毘廬遮那如来という如来であることがわかりました。仏教書には毘盧遮那如来というのは未来永劫変わることのない絶対的な真理である悟りを体現した如来であるとの説明されていました。そして毘廬遮那如来は未来永劫、無数の如来を生み出し続けることができる如来なのだと説明されていました。その説明を見て、私もその一人なのかもしれないと図々しく思ったのは事実です。富士山火口からマグマ溜りまで掘削していった先に地獄とは無縁の天上世界、悟りの境地が広がっていたとしか言いようがないのです。私達搭乗者五人は地下深部で宇宙の根源的な仏である毘廬遮那如来を見たのです。」

市川は一息にまくしたてた。私にはただそれを聞きとどめておくしかできなかった。

「自然科学研究者としての自意識と、事実として超仏教体験をしたことの狭間において長い間この事実を整理して考えることができませんでした。その後、仏教書を読み進むにつれ、私の精神が整理されていきました。明治の仏教学者である井上円了がこう言っています。『哲学は疑うことから始まり、先人の言ってきたことを鵜呑みにせず、新しい知見を追い求めて真実を明らかにすることを目的とする』と。この言葉において哲学を科学と言い換えると、科学はその目的の一つに人間の苦しみを和らげるというものも一部に含まれているかもしれません。ただ、私達科学者が半ば信仰してきた現代科学の目的は人間の苦しみを減らすことを目的としている場合もありますが、研究という作業自体は他人を疑い、エビデンスに基づいた新しい答えを見出すことにひたすら努めることで、私や暁烏博士もまたその考えを信仰してきました。

一方、井上円了も言っていますが宗教は信じることに努めることであり、先人の教えを守り、世間が信じていることを受け入れることだと言っています。疑いを捨てて安心を得ることに徹することが肝要であります。疑いがあると迷いがあり、迷いがあれば心が苦しく、人間は辛いものです。苦しさを減らすために信じること、それが宗教の在りようです。宗教にとって新しいことを追求する必要もなく、真実を知る必要もない。先人たちの教えに従って自らの心中に存在する疑いを解くことで仏に救いを求める。宗教は安心のためのノウハウでもあるのです。地下深部に閉じ込められるという極限状態で私達五人は科学ではなく、宗教に救いを求めたということです。その結果、皆が同様のあのような体験をした。私はあの時の現象をそう理解しています。」

岩石は流転する。それは人間の一生のように。

                                   了

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地下深部溶融岩石曼荼羅 武良嶺峰 @mura_minemine

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