第8話 大胆な事実

 「もしもし。この前八重洲の居酒屋で取材を受けた瀬尾です。この電話に気がついたらできるだけ早く返答の電話をください。お願いします。」

市川のマンションから自宅への帰宅後、数時間程寝てしまっていたため深夜にかかってきた瀬尾からの留守番電話に気が付いたのは翌朝だった。留守番電話口の瀬尾はとても慌ており、電話での口調はやや常軌を逸しているように聞こえた。この年になるまでずっと独り身で生きてきた私であったが俄かに女性から連絡を受けるなんて想像していなかった。今年は女性に縁があるなと、私は自傷気味に一人で笑った。出社後自席から瀬尾への電話を入れると、数回の呼出し音の後、電話口に瀬尾の淀んだ声が聞こえた。

「急な電話で申し訳ありません。市川さんと昨日話をしていたようですが、市川さんとはお知り合いなのですか?同じ大学の先輩後輩の関係であると聞いたことがあるのですがそれは本当のことですか。」

もちろん市川とは後輩ということで面識はあるが、瀬尾の思いもよらない会話の切り出し方に私はあっけにとられ数秒言葉を失っていると、瀬尾は続けざまに言葉を浴びせてきた。弾丸に耳が打ち抜かれたように騒がしい。なにやらよほどに取り乱しているようだった。よくよく聞いてい見ると瀬尾はなぜマグマ溜りの『蓋』がしまったことがマスコミに気が付かれたのだろうかと早口に小声で繰り返しており、電話口であったとしても、到底常人の精神状態のそれではないと私には想像がついた。

「落ち着いてください。どうしたのですか。ゆっくりと話をしてください。」

「掘削船で発生した事故のことをマスコミにリークしたのはあなたですか。」瀬尾が勢いこみ叫びに近い声を電話口で上げている。

「私はリークなんてしていません。昨日市川からも同じことを聞かれたのですが、私は新聞社内の人間はもとより社外の人間にもあなたたちから聞いた事故の事実を誰にも話していません。情報提供者からの指示にすべて従うことが記者としての最低限のマナーです。過去私も地球科学を学ぶ学生でしたが、今は一新聞記者、一ジャーナリストです。自然科学における真実を明らかにするのはあなた達の責務であって私の責務ではない。その情報の扱い方についてはあなた方達で責任を取ってください。」私は強い口調で新聞記者としての私の意見を伝えた。

「そうですか。わかりました。それなら良いです。あなたを疑ってしまい、取り乱してしまい申し訳ありません。ただ市川博士はあなたの大学の後輩だったのですね。知りませんでした。市川博士は一言もそのことを教えてはくれなかった。」

「市川が私の大学の後輩であることは間違いありません。私があなた方が隠している事実を漏洩したことに無関係であることを納得してもらったのはありがたいのですが、なぜあなたはこんなに慌てているのですか。」

「そうですか。わかりました。疑って申し訳なかったです。ただどうしても今から研究所に来てもらえないですか。」

瀬尾との会話はどうにもかみ合わない状況になっており、私は回答に困った。

電話口の瀬尾は表面上平静を取り戻したようだったが、何一つ納得がいかないのは事実だった。瀬尾の会話はやはりもちぐはぐだったが、私にJMEA本部まで来てほしいということだった。新聞社から研究所までは在来線で一時間ほどの距離である。新聞記者としての私の直観が研究所に行くべきだと訴えかけている。私は研究所へと向かうことを決めた。なにかある。瀬尾との電話はすでに切れており、プープーという機械的な通信音だけが耳元に残った。


          *

JMEA本部へ向かう在来線の中で瀬尾から再び電話があり、直接暁烏博士の研究室に来てくださいということだった。私は電車を降りると外はどんよりと湿っていた。会社の動静表には『外出』とだけ書き、上司には緊急の取材のため外出しますとだけ伝えた。JMEAの最寄駅から本部までは一㎞弱の道のりだが、駅前のタクシー乗り場にタクシーの姿は見えなかったので、徒歩で向かうしかない。どんよりと曇った空は大気中の湿った空気を閉じ込めて離そうとしない。速足で歩いていくと毛穴からは水蒸気なのか自身の排出物なのか良く分らないものが噴き出してメガネはすぐに曇り視界を遮った。地下鉄の駅から研究所までは歩いて十分ほどの距離だが、息も絶え絶えにやっとJMEA本部に辿りついた。敷地内は静まりかえっている。暁烏博士の研究室は本部の三階だった。

研究室の扉の前までくると敷地内の静けさが嘘のように扉の奥からは女性の叫び声が響いていた。大方その声を発しているのが誰なのか検討がついた。私は扉の前で息を整え、曇った眼鏡を湿ったシャツの裾で拭った。ひっそりと扉を開けると、叫んでいたのは数秒前に想像していた通り瀬尾だった。研究室に入ると瀬尾が扉に背を向けて立っており、私が入るとその叫ぶのを止めた。瀬尾は入口近くにいて、奥のデスクには暁烏博士が座っていた。市川は暁烏博士のデスクの前に立っていた。三者の視線は三者で完結しており、研究室に入った私の姿に目を止めた人はいなかった。少しして私の姿を認識し、瀬尾が再び大声で叫び出しそうなそぶりを見せたがふと冷静になったようで、来てくれてありがとうございます、と小さな声でぽつりと言い、話始めた。

「関係者が全員集まりましたので、最初から順を追って話します。あなたは第三者として私達の話を聞きそれをどのような形でもよいので公表してください。あなたの勤める新聞社の記事にしてもらってかまいません。」

ほどなくして私は自らが巻き込まれている状況を把握してきた。瀬尾から私がここへ呼び出されたのはこの三人の議論を第三者として傍観し、その議事録を作成し、公表するためだったのだ。そしてなぜか暁烏博士は、ばつの悪い顔をしていた。

「私は一㎜もマグマ溜りには潜っていない。富士火山の火口直下で有人掘削船に乗り込み、やぐらに釣られたこともない。実際はすべて市川博士がやったことなのだから。マグマ溜りに潜ったのも、マグマ溜まり内での岩石採取も観察、分析もすべて。私は一㎜も潜っていない。一㎜も。」

急に瀬尾が叫び、そんな告白をした。私は傍観者として、記者として、瀬尾の言葉を聞き洩らさないように集中した。それが事実であれば、大変なことである。さらに瀬尾の声は大きくなり、最後は再び叫んでいた。暁烏博士と市川の表情は入口近くにいる私からはよく見えなかったが研究室の奥の方で静かに佇んでいた。サーモグラフィーカメラで見れば、圧倒的な熱量を発している一人とやや青白色の三つの人影がぼんやりと映っているように見えただろう。私には顛末の行く末がぼんやりと想像できた。数時間にも及ぶとも思われる長い静寂の後、私がその沈黙を破る役なのだろう。沈黙を破れるのは唯一無関係な第三者である私しかいない。

「なぜ市川が実際には掘削船に乗って地下に潜ったのに瀬尾さんが有人掘削船に搭乗したという誤った情報を公表したのでしょうか?なぜそうしなければいけなかったのか?他にも聞きたいことは山ほどあります。新聞記者は正しい事実をそのままにわかりやすく社会に対して報道することが仕事ですから。」

私に対し背を向け、視線を一度も上げなかった暁烏博士が初めて私を一瞥した。

「今日一日の言動を見てわかるように瀬尾というのはこんな人間だ。半年にも及ぶ長い掘削船での生活に瀬尾は耐えられるはずがない。だがこれまでの研究実績と僕の推薦から瀬尾が掘削船に搭乗することは数年前から決まっていて変えられなかった。最初の判断を僕が見誤ったところにすべての原因がある。それにこの計画でJMEAには莫大な研究成果がもたらされる。瀬尾の民間企業からのスポンサーは多いからね。結果的には市川が搭乗したことで得られた成果は莫大だったわけだけどね。」

暁烏博士は観念した顔をしてとうとうと話し出した。瀬尾はいつからか湿っぽく泣いており、鳴き声が細雪のように私の鼓膜に張り付いた。次は誰が口火を切るのだろう、事実が明らかになったのだから口火を切る必要もないが、と私は思った。すると今度は市川が唐突に語りだした。

「マスコミに情報を流したのは結局、誰だったのでしょうか。瀬尾さんですか。それともここにいる三人以外の誰かなのでしょうか。」

瀬尾の表情がさっと曇り、鋭く市川の顔を睨んでいた。違うんだと研究室の奥の方から誰かの小さな声が聞こえた。

「情報を流したのは瀬尾じゃない。私が匿名で関係各所に情報を発信した。数日前のことだ。」

研究室の一番奥に座っている、暁烏博士の声だった。

「自然科学者は自然に隠された真実を明らかにするために自分の生涯をかけて研究している。掘削船に誰が搭乗していたのか、なんてことはすぐに皆にわかってしまう。」

静かになった研究室でもう一つ聞いていいですかと今度は私が切り出した。

「暁烏博士と市川博士に質問なのですが、マグマ溜りの『底』、上部マントルと地殻の境界で何があったのかもう少し教えてもらえませんか。まだ明らかにされていない事実が残っているのではないでしょうか。瀬尾さんは答えなくて構いません。掘削船に乗っていなかったのですから。」

「それについては先日私が君の取材で答えた通りで、同じような内容をそこにいる二人の女性から聞いているだろう。それに公表論文を読めばわかることだ。搭乗者の氏名だけが誤っていたのだ。」

暁烏博士がぶっきらぼうに話したが私はまだ何か隠していることがあるのではないかと疑っていた。暁烏博士と市川は表情を変えず渋い顔をしたままだった。嘘をついた時、データをねつ造した時、その研究者からは真実を追い求めてきた研究者とは異なる匂いがする。そして一度ついた嘘は坂道を転げ落ちるように巨大の塊へと変わる。わずか数年間の研究生活しか送らなかった私だったが、第三者としてこの場に立ち会い初めてそれがわかった。暁烏博士はまだ嘘をついている。

瀬尾は私が発する空気を察したかのようにはっとした表情を見せたが、暁烏博士と市川は依然として無表情を崩さなかった。瀬尾は頭を左右に振りながらどうも落ち着きがない。

「私はこれ以上何も知らないけれど、まだ何かあるの?私は掘削船に乗らなかったけど、それ以外に何があるの?」

暁烏博士は引き続き、無表情だった。

「市川と瀬尾さんが入れ替わっていた事実を公表しなかった理由が他にもあるのではないでしょうか。二人の入れ替わりは本当に隠すべき大きな嘘を隠すために用意された嘘だったのではないでしょうか。当初は瀬尾さんが掘削船に搭乗することになっていたのでしょう。ただ瀬尾さんを搭乗者に推薦する声が拡大する中で暁烏博士は瀬尾さんが実力不足であることに気が付いていた。そこで秘密裏に瀬尾さんの代わりに市川を搭乗させることにした。そんな嘘みたいなことが可能なのか、部外者の私にはわかりません。大日本石油の吉田さんを含め、他の搭乗者の方達の協力がないと到底対応はできないことでしょう。搭乗者交代の事実を公表しなかったのはなぜなのでしょうか。」

私以外の三人は沈黙を続けている。瀬尾に限っては床にペタリと座り込み、目を閉じ、私の声が聞こえているのかどうかも定かではない様子だった。

「搭乗者の交代を公表しなかったのは瀬尾さんが市川の成果を自らのものとしたかったからではないでしょうか。私の勝手な憶測です。エビデンスなど何一つありません。」

瀬尾のうなり声のような声が聞こえている以外は誰も口を開かなかった。

「搭乗者の交代を公表しなかったのは瀬尾さんが暁烏博士に対して働きかけたのかもしれません。それに瀬尾さんとして研究成果は欲しいが、掘削船に乗り込み作業をやり遂げる自信はないし、無事に地上に戻って来られないかもしれないという不安もある。そんな中で暁烏博士と市川はマグマ溜りに潜り、トラブルがあったものの成果を出し、無事に地表へ戻って来た。公然の秘密の完成です。二人が地表に戻り、研究成果が得られた後に市川が搭乗していたという事実を公表しても良かったと思うのですがやはりここでも暁烏博士は公表しなかった。公表しなかった理由があるはずです。もしかしたらマグマ溜りの『底』で何か見てはいけないものを見てしまったのでは?科学者としての根幹が崩れてしまうような何かを見てしまった?それは地球科学の歴史、科学者としてのアイデンティティを揺るがすような事実だったのでは?そこで世間からの過剰な詮索を避けるため搭乗者変更の事実すらも今まで隠蔽したのではないでしょうか。入れ替わりの事実はそのための最後の隠れ蓑として残していたのではないでしょうか。」

瀬尾は呆然としており、搭乗者の入れ替わり以外に隠されていたことがあることを理解できていないようだった。そして、市川が口を開いた。

「あなたの言った通りです。これまでの科学者としての意識、イデオロギー、いや矜持と言っても過言ではないかもしれませんが、そういった私達研究者の根幹をなすものが瓦解してしまうような現象を搭乗者である私達はマグマ溜りの『底』で見てしまったんですよ。あれを事実と言ってよいのかわかりません。地下十㎞近くの極限環境では皆判断できなかったことなのです。それは今も私には咀嚼しきれていないことです。科学者としては恥ずべき発言なのかもしれないのですが、極端な言い方をすればそれは超仏教体験と言ってもよいものかもしれません。」

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