通勤カバディ!

セントホワイト

通勤カバディ!

 日本のサラリーマンの朝は毎日が戦場だ。

 遅くまで残業を重ねて家に帰る頃にはボロボロになり、倒れるように眠りにつけば気が付いた時には出社の時間となる。

 平均的な現代サラリーマンの当たり前の日常に、すでに五年の月日と共に流されながら今日も朝がやってきてしまう。

 疲労感は若さでカバーして何とかベッドから立ち上がり、眠る前に外したネクタイをポケットに捻じ込んで家を出た。

 鍵を閉めて二階のアパートから階段を降りる前に、出社を邪魔する第一の刺客が現れる。


「カバディ、カバディ、カバディ……」


 目の前に現れたのはブラック企業に出社しようとする俺を止めるアパートの大家さんだ。

 両腕を広げて鬼気迫る表情で出社を止めさせようとする御年七十歳を迎えた大家さんがいるのは入居時から知っていた。

 これは労働基準法を守らない会社が未だ多く存在し、消えることがないため政府が作った苦肉の策にして新法、通勤妨害カバディ法を施行した所為だ。

 ブラック企業勤めの人間を見つけて捕まえることで政府から賞金が出るため、年金に頼れない高齢者もこうして参加することになる。

 しかし問題となったのは安全策だ。捕まえることを前提にしている以上、方法を問わない場合簡単に事件になりかねないこの法律はひとつの競技の基礎として行われる。

 それこそがカバディ。己の身体だけが武器のインド発祥のスポーツである。


「俺は……働ける……まだ、働けるんだ!」

「いいや、アンタはもうダメだね。顔も身体も入居した時よりだいぶやつれてる。心も身体もボロボロじゃないか」

「でも……でも働かないと家賃だって払えないんだ! 働かなきゃ……働かなきゃ! 先輩が言ってたんだ。働かない奴はクズだって! 上司が言ってたんだ。仕事から逃げる奴はゴミだって! 社会のお荷物なんだって!」

「……馬鹿だね。そんなに働きたきゃ私を倒してからにしな! 私が負けても家賃はびた一文まけないよ!」


 大家さんの手に掛かった住人たちを俺は見たことがある。どこか晴々とした表情で療養施設に送られた元住人たちの姿を。

 数か月前に見た隣に住んでいた女性は元気にしているのだろうか? すでにその部屋には新たな住人が住んでいるようだが朝が早いらしく顔を見たことはない。

 きっと隣の人もターゲットになるのかもしれないが、その前に自分の番となってしまった。


「大家さん……今日は朝から大事な会議のための会議があるんだ。そこを通して貰う!」

「笑わせるんじゃないよ、三十路にもならない若造が……年季の入った婆ちゃんの味噌汁でも腹一杯食わせてやるからねぇ! 行くよ!」

「「カバディカバディカバディ……」」


 互いに両手を広げ、同じ掛け声で相手と向かい合う。

 勝負は一瞬。互いの手を読み合う真剣勝負。それは遥か昔に存在していた侍同士の殺し合いにも似た殺伐とした雰囲気を両者の周囲に満たしていく。

 一歩。互いに右足を踏み出すと手が届く間合いとなる。

 最初に動いたのは大家さん。更なる一歩に左足を上げた瞬間を捉え、さらに大きく踏み込んだ。

 ほんの少しの距離かもしれないが、そのほんの少しの距離が大家さんの手に手が届く。


「なんっ!?」

「残念ですが、若さを最大限活かさせて貰います!」


 高齢者である大家にとって無意識に自分の身体を酷使することは出来ないと思っていることで、近付くには相手も更なる一歩を出すと想像していた。

 大きく踏み込めばアキレス腱を切ってしまう可能性があることを考えれば必然だが、若者の身体はそう簡単にアキレス腱を痛めることを考えるものではない。

 ほんの少しの差で生じた次なる一手。大家の腕を掴んで引き寄せ、代わるように立ち位置を変えていく。

 横を通り過ぎる大家の顔は驚愕に歪み、こちらは彼女の手癖の悪さに辟易していた。

 通り過ぎる間際、咄嗟に肩を掴もうとする大家の手を避けてよろける彼女から手を放し、無事に手すりに手を伸ばして体勢を整えたのを見てから大家に別れを告げた。


「それじゃあ、行ってきます!」

「こら! 待ちな!」

「また後日!」


 大家の朝の挨拶に背中に受けて今日も走る。

 これから恐らく何人もの敵が現れる。例えば駅員。例えばご近所さん。例えば他の会社に移った元同僚。

 電車に乗り遅れれば遅延証明書が出ない以上、最悪の場合欠勤扱いとなってしまう。

 一人前の社会人として三十分前には出社しなければならないというのに。

 だからこそ今日も虚ろな瞳で走り続ける。止まったら死んでしまうマグロにも似た生き方をしていることを察しながら、お金を稼ぐために今日も遅刻しそうな朝は走っている。

 なぜなら平凡なサラリーマンでしかないのだから……。


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