18話 暁原燎のやりたいこと

 そこから先は、純粋に夜の旅を楽しんだ。


 別世界のような風景や夜空を楽しんだり、ただ夜風に身を任せたり、時折強い風が吹いて、その影響で「さむい」と言いたげに身を寄せるほたるに少しだけ緊張したり。

 過去の小さな話で笑い合ったり、少し自転車から降りて休憩したり、逆にほたるが自転車に乗って、流石に燎が後ろに乗るわけにはいかないのでそれを走って追いかけたり。

 一つの自転車を、二人で。様々な体験をしながら、余計なもの全てを今は置き去りにするように走り続けた。


 そうしているうちに、燎の中でも余計なものが削ぎ落とされ、考えが整理される。


 ずっと、思っていたこと。どこにだって行けるし、なんだってできる。

 ……間違いなく本当にそう、というわけではないのかもしれない。どうあってもできないことはあるのかもしれないし、限界だって確かに存在するのかもしれない。


 でも、それでも。

 ──そうだ、と信じて走り続ける。それには、間違いなく意味があると思った。

 何より、その方が楽しいと思えた。少なくとも、自らに『こんなものだ』と枷をかけて自分で作った枠の中で窮屈に生きるよりも、そっちの方がずっと心が躍る。

 だから自分は、そういう風に生きたいと思った。くだらなくても、馬鹿みたいでも、見えないくらい遥か遠くでも。何かを目指して、全力で走り抜けたいと思ったんだ。


 それに──と続けて考えようとしたところで、ふと上を見上げて気付いた。

 既に、東の空が白く光を放っている。

 夜明けが近い。そう見て取った燎は、後ろのほたるに声をかける。


「もうすぐ夜が明けるみたいです。先輩、ここからは飛ばして良いですか?」

「うん! 一気に行っちゃおっか!」


 了承を受け、強くペダルを踏み締め、走る。

 点滅する信号機をくぐって、小さな段差を乗り越えて、見え始めた朝靄を突っ切って。

 過去の自分を、夜空に置き去りにして。ごう、と加速した分強く吹き荒ぶ風にわけもなく逆らって。背中に感じる彼女の体温を拠り所に、ただ前を向いて。


 雲も風も、星空すらも追い越すように。

 この瞬間、自分たちはここで走っているんだと叫ぶように。

 どこにだって行けるんだって、今この時だけは証明するように。


 走って、走って──その果てに、辿り着く。


「…………、ついた」


 自転車を降り、堤防を乗り越えたその先に広がる。

 今の自分たちの到達点。実際見ても着けたことが信じられないと言った呟きをする燎の眼前に広がるのは、朝焼けに照らされた眩いほどの──


「うみだ──────っ!!」


 その光景を見て、走り出したほたるが端的に叫ぶ。

 そう、海だ。……勿論、情報として知ってはいた。この方向に走り続ければ、絶対に海には突き当たると。距離的に、頑張って走れば夜明けまでには辿り着けるだろうとも。

 けれど……実際にそうだと知っていても、本当に行けたことに対して。やっぱりまだ若干信じられない気持ちと、訳のない達成感が燎の中にある。


「わー!」

「いや、あの、先輩!?」


 そして、そんな燎などお構いなしに。

 一気にテンションがマックスになったほたるが止まることなく駆け続ける。

 走る途中で靴と靴下を脱ぎ捨て、勢いのまま海に足をつけ──

 ──その直後に戻ってきて。


「つっっめたい!! さっむい!!」

「当たり前でしょうが五月の早朝ですよ!?」


 そりゃそうだろ、と突っ込む。いくら今日が比較的暖かい夜だったとは言え、この時期と時刻に気温だけでなく水温も人間に優しいと思ったならそれは海を舐めすぎである。


(…………いや)


 だが、そこまで思ったところで燎も考え直す。

 実際にそうだろう、と知識では知っていたとしても。本当にそうなのか、と身をもって確かめたほたると知識を先行させて立ち止まった燎。

 上手く言えないが……彼女と自分の差はそこなんじゃないか、と何故かふと思って。

 なので燎も、慌てて足を拭いて靴下を履き直しているほたるを他所に自分も海へと向かい。合わせて靴と靴下を脱ぎ、躊躇わず海へと足を踏み入れて。


「冷たい!! 寒い!!」

「さっき自分で言ったよね!?」


 そりゃそうである。当然の如くほたるに突っ込まれた。

 何をやっているのだ自分は、と全速力で海から離れて戻りつつ、けれど不思議と後悔はない様子でほたるにこう告げる。


「いや、その……本当にそうなのか、やっぱり自分で確かめてみないとだめなんじゃないか、と思いまして」


 やや要領を得ない言葉だったかもしれないが、ほたるには伝わった様子で。驚きの表情を戻したのち、「ふふ、そうだねー」と笑顔を浮かべる。

 そこから改めて、二人合わせて、眼前の光景を見やる。


「わぁ……!」

「……っ」


 夜が明ける瞬間が、そこにあった。

 鉛色の海が、朝焼けに照らされて目を覚ます瞬間。地平線を彩る朝日と藍空の間にあるグラデーション。鼻を掠める磯の香りに、冷たくも懐かしい潮風。

 燎も知識として知ってはいた。なんならほたるは描いたことすらあったかもしれない。

 でも、実際に見る日の出というのは、こんなにも。


「綺麗だね!」


 楽しそうにその場で周り、朝日に照らされるほたるの眩い笑顔。それと背景の朝日を見て、燎も静かに頷く。これを見ただけで、間違いなくここまで走って良かったと思えるほどに、それは綺麗だった。

 その上で、燎も呟く。ここに来るまでに、思ったことを改めて。


「どこにだって行けるし、何だってできる。……本当にそうでは、ないのかもしれない」


 けれど、と。この旅で得たことを、一言で。


「それでも──きっと。そうだと信じて夜に走り出さなかったら、間違いなくこの景色は見られませんでした」

「……そうだね」


 ほたるも、静かな微笑みと共に燎の隣に戻ってこう答える。


「『自分はこんなものじゃない』って頑張っても、本当に限界を越えられる保証はない。越えられるかもしれないけど、本当の限界を知っちゃう結果になる可能性も無くはない」

「……」

「それでも……少なくとも、その逆。『自分はこんなものだ』って思ったら、本当にそこが限界になっちゃうと思うんだ。これはきっと『かもしれない』じゃなく、絶対に」


 ああ、その通りだ。

 だからこそ、走り続けること自体にもきっと価値がある。

 ……そんなことも忘れて。今まで自分は、本当に何を。


「……きみの気持ちも分かるよ」


 不甲斐なさに再度俯く燎に、ほたるは慈しむような苦笑を向けて。


「頑張るほどに、どうしても自分は見えてくるから。特に足りないところやうまくいかないところは、普段見ないようにしてる分余計鮮明に。それに目を向けすぎちゃって……それ以外のことができなくなる時もある。そんなことをしてる暇はないんだって、まだ何もできてないのに他にも手を出して、中途半端になっちゃわないかって」

「……先輩も、そういう時はあったんですか?」

「そこは秘密ということで!」


 ふと気になって問いかけると、やや食い気味に目を逸らしつつそう言われた。大体答えになっている気がするが、それ以上は問わないのが礼儀だろう。

 ほたるも、こほんと可愛らしい咳払いを一つ入れると、再度燎に向き直り。


「でも、その上であたしは言うよ。──やってしまえば良いんだって」

「!」

「身の程知らずとか、欲張りすぎだとか。そういうことは考える必要はない……やってみてから考えたって、全然遅くはないとあたしは思う」


 その上で、こう告げてくる。


「それに……少なくとも、きみの場合は。『中途半端』には、絶対ならない」

「え」

「だから、始めちゃえば良いよ。だって、きみは」


 出会ってからここまででほたるが彼に対して得た、一つの印象。

 その一点に対する確かな信頼を乗せて、一言。



「きみは──一度・・始めたなら・・・・・最後まで・・・・絶対に・・・手を・・抜かない・・・・でしょ?」



 信頼と、敬意と、後は少しの期待と願い。

 それらを乗せて……加えて少しだけ悪戯げな色も含んだ、その笑顔を向けられて。


「っ」


 そこで、きっと完全に吹っ切れた。

 一つ頷いてから、もう一度海の方角へと走り出して。


「っぁああ────────ッ!!」


 とにかく、叫んだ。

 多分ほたるのことはすごいびっくりさせてしまったと思うが、それでも。

 今までの自分を吹っ切るように、或いは叩きつけるように、叫ぶ。


「いっつまでうだうだ言ってんだお前は! たかだか半年上手くいかなかった程度で何だ! そんな程度で辿り着けるようなもんに憧れたのか!? 違うだろうが!」


 これまでの自分を、許されるなら助走をつけて殴りたい気分だ。

 事実、そうするつもりで過去に向けた言葉を続ける。


「能力が足りなかろうが、目指す場所が遠かろうが人と違おうが! それでも目指すって決めたんだろ! だったら簡単に忘れてんじゃねぇよ!!」


 もう、二度と忘れない。その誓いも込めて、全力で遥か遠くを見据えて。


「何だろうが、馬鹿みたいに全力でやってみるのがお前の長所だろうが! じゃあまずはとにかく走れ! 自分がこんなもんだなんて、一生、思って、たまるかッ!!」


 大声で叫ぶのは、久しぶりだ。その影響か、割とすぐに息が切れてしまった。

 けれど、言いたいことは言い切った。息を整えつつ顔を上げ、ふと横を向いて──そこで、ほたると目が合う。


「…………すみません、全力で変なところをお見せしました」

「いやいやいや! むしろすっごいかがりくんだなぁって思ったよ!?」

「それはそれで物申したいんですが」


 謝ったところ、予想外の返答を受けた。

 割と熱量高めな部類の人間であることは自覚しているが、特に中学の一件があってからは表に出さないよう努力をしていたつもりだ。

 だがどうやら無駄だったらしく、ほたるは楽しそうに笑って続ける。


「あたしは好きだよ? 普段は落ち着いてるけど奥底はすっごい燃えてる感じの子。きみがそういう子らしいってのははるさんから聞いてたし、会ってすぐ聞いてた以上に聞いてた通りの子だなーって分かったし」

「いや、その」

「だから、今のもとても良いと思った! むしろ朝日に向かって全力で叫ぶ男の子って感じで超絵になってた! というかもっかいやってもらっていい!? 参考にスケッチとかしたいんだけど!」

「それは本当にやめていただけませんか!?」


 今の姿を形に残されるのは脅迫材料を一つ与えるのとそう大差ないと思う。なので色々と言葉を駆使して、それだけは何とか諦めてもらった。

 その後で、改めて朝焼けの海を見やって……一言呟く。


「……やるか」


 具体的に何が、はまだ決まっていない。

 けれど、目指すべき方向は思い出したし、今まで以上にくっきりと見えている。

 そのために、何があろうと走り抜けること。そして──それを楽しむ、決意はできた。


 ここで一つ、過去の自分を思い出す。

 ほたるの誘いを断ってしまう直前に、自分が考えていたこと。


『(……夢に向かうのって、こんなにも苦しいことだったっけ?)』


 その時の自分の疑問に、今ならばはっきりとこう言える。


(──そんな訳、あるか)


 楽しいさ。それが本当に心から望む夢であれば、それがなんだろうと目指す場所がどこだろうと、絶対に楽しい。

 楽しめる人間になりたいと思った、そういう風に走れたら、素敵だろうと思えたんだ。今この瞬間、今までで一番強く。


 だから、きっとそれが正解で。とにかく、それに向かってやってみようと。

 そう心を決めて締めくくり、ほたるの方に向き直る。


「……そろそろ戻りましょうか、先輩」

「え。……もうちょっとここに居るのはだめかな?」

「気持ちは分かりますが、実はそうもいかなくてですね」


 燎としてももう少しこの風景を眺めていたい気持ちもあるのだがそうもいかない。

 早く帰って何かをしたいという気持ちも同じくらいある、というのもあるが……そもそもそんなもの関係なしに戻らねばならない理由がある。それを、厳かに燎は告げる。


「先輩。多分お忘れかと思う事実をお伝えするんですが」

「?」

「今日は、学校があります」

「…………、ほんとだ!?」


 どうやら完全にお忘れだったらしい。

 既に時刻は五時を回っている、ここまでの移動時間を加味すると普通に相当まずい。

 ……何とも締まらないが、そういう理由で。夜の旅は、これで終わりとなる。


「先輩」

「ん?」

「……ありがとうございました」

「うん!」


 最後に、言うべき一言を告げて。

 色々と大変だった、けれど多くのものを得て、そして一切後悔のない。

 夜明けに向かって走った、一晩の旅が終わりを告げるのだった。




 ◆




 ちなみに、帰りも帰りで大変だった。

 まず、帰りまで二人乗りは流石に無理だ。燎の体力が保たない。いくら燎が体力のある方で、かつほたるがかなり軽い方とは言っても、純粋に人間一人分の体重を荷台に乗せての自転車走行は段違いにスタミナを使う。

 それらの問題に加え、深夜と違って人通りもあることを考えれば体力面でも安全面でもほたるを後ろに乗せるのはまず無理、見つかるべき人に見つかった場合も謝るしかない。なので、ほたるだけは近くの駅から電車伝いに帰ってもらうことになった。


「えと、かがりくんは大丈夫なの……?」

「大丈夫です。体力だけなら多分学年で上位一桁に入っていれば良いなと思うくらいなので」

「すごい不安だけど分かった! じゃあ朝ごはん作って待ってるね!」


 自宅に着く頃には相当グロッキーになっていたことは言うまでもない。

 それらも含め、後先考えず飛び出すとこうなる、という寓話にできるほど見事な後半のぐだぐだっぷりだったわけだが……

 それも全部ひっくるめて、楽しかった。体力の限界まで自転車を漕ぐ、という初めての経験まで、笑いながらできるくらいにはその思いが強くある。

 そんな、素敵な旅だったことは間違いない。




 そうして、どうにかこうにか登校し。

 全力で眠気に抗い、星歌と影司に心配されつつ乗り切ったその日の放課後。

 仮眠を取ったのち、久々にほたると一緒に創作作業をしつつ、燎は思う。


 ……自分の中で、悩んでいたことを吹っ切れはした。何だろうとこれからは迷わず自分の目指すものに向かって突き進む覚悟はあるし、実際自身の原点を思い出したことで創作面のスランプも脱出できそうな感覚はある、けれど。


(……それだけで、良いんだろうか)


 それだけなら、ただ燎の心の中だけの出来事だ。自分にとっては大きなものでも、周りからすれば大した変化だとはならないかもしれない。

 だから……きっとこれは何かを創る人間としての本能のようなものだろう。その、自分にとってはあまりにも大きなこの変化を、何か形として残したいというか……


(……いいや)


 そこで、燎も思い直す。多分、これも言い訳だ。

 正確な自分の心の声は、もっともっと単純に、ただただ純粋に。

 


 燎は、ただ、この熱量のまま──何かを・・・してみたくて・・・・・・たまらない・・・・・のだ。



 多分、もうとっくに火は付いていた。旭羽高校に入って、とんでもない先輩に出会って。クラスメイトも同じく、凄まじく熱い思いを持って何かに向かっていて。

 自分も、という思いはとうの昔に燃え上がっていた。それが、夜の旅を経て自分を思い出した今はっきりと自覚できてしまっただけだ。

 そして──その思いを躊躇う理由もまた、あの旅で完全になくなっている。


「先輩」


 だから、暁原燎は。しばしの考慮の後、思いついたそれを。

 この学校に入って、変わった証明として。きっと初めての、自分の証として。

 今度こそ一切の躊躇いなく、いつもの言葉で口に出す。



「──やってみたいことが、あるんですけど」



 そして同じくこれも、ほたるに予想以上の二つ返事で了承してもらう。

 とある提案を、告げたのだった。

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