17話 暁原燎のはじまり
「…………どうして」
あの日聞いた、夜空の曲に憧れたのか。
それは、あまりにも当たり前のように燎の中心にありすぎていて。……だからこそ、今までほとんど受けることのなかった問いかけ。
それを今、ほたるからぶつけられて。
改めて、燎は思い返して考える。その曲を初めて聞くまでの経緯。その時まで、自分が思っていたことや考えていたこと。そして──
(…………、あ)
その果てに、思い出す。いつの間にか、自分が忘れてしまっていたこと。
それを自覚すると同時に、自然と自身の中から言葉がこぼれ出た。
一呼吸を置いてから、口を開く。
「……俺。小さい頃は、『どこにだって行けるし、なんだってできる』って思ってたんですよ。きっと、割と本気で」
「うん」
ほたるも何かを悟ったか、燎の迂遠な言い出しに何も言わずに頷いてくれる。それに背中を押されるように、燎も言葉を続ける。
「でも、そんなわけないじゃないですか。さっき言ったように自転車で思ったより遠くに行けなかったこともそうだし、他にはできると思っていたことが全然できなかったり、周りの人間よりもできるのが遅かったり」
「……」
「そういう小さなことだったり、何か他にも大きな挫折だったり。そういうことをたくさん経験して……ちょっとずつ、自分が思ったより何もできないことを学んでいって」
無邪気に信じられていた幻想は、そうやってあっという間に褪せていって。
……けれど、どうしてかそれを完全に諦め切ることだけはできなくて。捨て切ることだけはどうしてもできず、それに苦しんでいた時。
そんな折に──ふとしたきっかけで、あの夜空の曲を聴いたのだ。
「感動したんです」
その時の、初めて聴いた時の思い。
「すごく静かなのにすごく熱かった。澄んでいるのに眩しかった。本当に夜空を飛んでいるような気分になれて、寄り添いながらも背中を押してもらっているようで。それで」
曲の素晴らしさと、その時の感動だっていくらでも言える。
けれど何より、燎がその曲を聴いて強く思ったこと、感じたこと。
それは。
「『どこにだって行けるし、なんだってできる』。──
だから、これまでの人生で一番と言って良いくらいに感動した、衝撃を受けた。
褪せていた幻想が再度色付いた気がして、もう一度燃えることができて。
だからこそ憧れた。自分も同じようなものを、心を動かすくらいに熱いものを作りたいと思って、作曲を始めたのだ。
いつの間にか忘れてしまった、彼の原点。
思い出したそれを、燎は告げる。
「……っ」
それを踏まえた上で、今の自分の考え。今まで悩んでいたことを見てみよう。
自分が憧れた曲を作り上げるためには、他のことにかまけている余裕なんてないんじゃないか。他の全てを捨ててでも、曲を作ることだけに集中するべきなんじゃないか。
「──いやだ」
そうやって、それ以外の全てを切り捨てた上で突き進んで、よしんば目標となるものを作り上げることができたとして。
そんな、
「絶対に、嫌だ。……すみません、先輩」
そうして見れば、言われるまでもなく分かる。
過去の自分が、どれほど的外れなことを言っていたのかを。
「以前に先輩の誘いを断ってしまった日、俺は言いました。『俺の本気は違うんですよ』と。……あれは、きっと嘘です」
そうだよ、自分は。自分だって、本当は。
「何かを諦めることが、自分の本気だなんて思いたくない。無茶だろうと無謀だろうと、自分で自分の限界を決めたくない。身の程なんて知りたくない」
ただ、目標となる曲を作るだけじゃ満足できない。自分は。
「俺は──どこにだって行けるし、なんだってできるって。そうやって馬鹿みたいに信じたまま、ずっと突き進みたい。突き進んだその果てでこそ、憧れを作り上げたいんだ」
そうして、彼は口にする。自分の願いを、自分が追うものの本質を。
ほたるに憧れる理由、彼女を眩しく思う理由も今なら分かる。自分が忘れてしまった、そこまでは無理だと切り捨ててしまった夢を今も持ったまま突き進んでいたから。目指していた自分と同じ道のずっと先を、彼女は今も走っていたからだ。
……どうして、忘れてしまっていたのだろう。
多分理由は色々ある。あまりにも高すぎる夢が周りに理解されなかったこともそうだし、曲を作ることすらここしばらく進めていなかったこともある。それに……『こいつらとならどこまでだって行ける』と信じて組んだバンドがああなった中学の出来事も、きっと影響が無かった、少なかったとは言えないだろう。
でも、間違いなく最大の理由は──ただただ単純に、夢を信じきれなかった自分の心の弱さだ。
ここ半年の作曲にも、ここまでの行動にも、気持ちが乗らなくて当然だ。自分はその心の弱さから、気付かぬうちに夢を下方修正してしまっていたのだから。
「…………くっ、そ」
己の不甲斐なさに、叫びたい衝動に駆られる。
けれど、それより前にすることがある。だから歯を食いしばって、まずは後ろにいる彼女に言うべきことを、心からの言葉で。
「……すみませんでした、先輩。一番大事なことも忘れて、ひどいことを言いました」
「ううん、それは全然。それに……」
けれどほたるは、それを静かに許した後、そっと燎に背中を預けて。
「忘れては、ないんじゃないかな」
「え?」
「だって、本当に忘れてたんならそもそも旭羽に来れてないと思うし。『身の程なんて知りたくない』って思いはちゃんとずっと持ってたから、はるさんの目にも留まってスカウトされて、ここまで来てくれたんでしょ?」
だから、忘れていたわけではなく。少しだけ見失っていただけだと彼女は語る。
「きみは、何にでも全力の人だから。きっと今までは色々な経験が重なって、悪い面にも全力で向き合いすぎてしまった結果そうなってたんだと思う」
「……」
「むしろ、きみがそうまでになるくらいの経験を経て……それでも本当に大事なところだけは手放さずにここまできた。それを誇って良いんじゃないかな」
その声には、お世辞や励ましのニュアンスなど一片も含まれておらず。ただ、純粋な労いと敬意だけが込められていて。
「……やめてください。泣きますよ」
「お? 全然良いよ、おねーさんの胸を貸してあげようか!」
「それは絶対に嫌です、主に俺の意地の問題で」
……とは言え、今更意地を語るには少々情けない面を見せすぎた気がする。
だから、胸を借りるとまでは行かないが。最後に、残った一片の不安を告げる。
「……できますかね」
多分、ここまで自分が悩み込んだ最大の要因。
自分の目指すものを思い出した今だからこそ、横たわる最大の不安を。
「俺は……先輩と違って、今作曲活動ですらろくに前に進めてない状態です。多少問題は解決したとはいえ、きっと俺と同じくらいの先輩と比べても全然目指すものまでは遠すぎる状態で。それなのに、ただ理想の曲を作りたいだけじゃない、なんて馬鹿なことまで言い出して。……本当に、できるんでしょうか。俺でも辿り着けるんでしょうか」
「……できる、って簡単には言えないかな。だってあたしもまだ全然だもん、デビューはできたけど理想にはほど遠い。むしろ進んだからこそ、どれだけ遠いかより具体的に分かっちゃったりもして……へこむことだってなくはない」
その不安を真正面から受け止めるからこそ、ほたるも変な気休めを言わずにしっかりと思うところを吐露する。
けれど、そこから声色を明るく変えて。
「でもね。分かってることも一つある」
「?」
「楽しいよ。さっきも言ったけど、どんなにとんでもない夢だろうと……自分が心からそれを目指したいと思っていて、それを本気で夢見られるなら。それに向かうことは、どうしようもなく楽しい。どれだけ叩き潰されても、前に進むことはやめられない。それが楽しい──そうじゃないと楽しいと思えない。あたしはきっとそういう生き物で、そういう生き物なんだって信じたいんだ」
「……はは」
思わず笑ってしまった。
改めて思う、ぶっ飛んでいると。ほたるに出会ってからこのかた、彼女がこの歳でプロになっていることに対して説得力のある面しか見ていない気がする。
……ああ、でも。確かに、本当にそう在れたのなら。
とてもとても素敵だろうなと、燎も思う。
「……それとね、もう一つ」
そこで、ほたるが。
もう一度声色を変えて……今までとは大きく違う、どこか儚さを宿した声で告げる。
「先輩?」
「あたしは、もちろん今まで言った夢を疑ってないし、全力でそれを目指して追いかけるつもり。でも……これもさっき言ったと思うけど、不安だったり、怖かったりだってしないこともない。……寂しいって思うことも、なくはないの」
「……寂しい?」
打って変わっての声色と、初めて聞くその響きに。燎も思わず問い返す。
「こんなとんでもな夢を本気で信じて追いかけてるのが、あたし一人なんじゃないかって。誰にも理解されないまま……理解してもらったとしても、ついてきてくれる人は一人もいないまま、ずっと一人で走るだけなのかなって」
「……」
「もちろん、それでも走るのは変わらない。でも……やっぱり、それは寂しいなって。ほんとは、けっこう思ってたりして」
多分、今までで最も。
彼女の深いところを話してもらっていると悟った。静かに、その続きを聞く。
「だからね。……仲間が欲しいの」
そうして、彼女はその一言を発する。それを恥じるように、けれど静かに溢すように。
「同じようにとんでもな夢を持ってて、本気で信じて追いかけてて。その夢を交換して励まし合ったり、ときどき一緒に頑張ったり。そんなことをして……一人じゃないんだって安心できるような、見てて励みになるような、そんな人が」
そこで、きゅっと。
背中を預けたまま、ほたるは燎の裾を掴む。今までで一番控えめに、けれどどこか縋るように。
そのまま、静かな熱を宿した声で、ほたるは告げる。
「きみが、そうだって。……期待しても、良いのかな」
「──」
今、分かった。
きっと、彼女が燎をずっと気にかけてくれていた理由はこれだろう。
燎が、自分と同じく遥か遠くの夢を全力で信じて追いかける人だと。自分が欲しかった仲間なんじゃないかと。
だから、あれほどまでに気にかけて色んなことに誘ってくれた。そして──以前燎が誘いを断ってしまった時の彼女の様子も、そこに起因するものだったのだろう。
晴継から話を聞いて、直接燎に会った日から。
彼女はそうなんじゃないかと思って……燎が自分ですらそれを疑いそうになっている期間も、そう信じてくれて。
それを理解して……流石にすぐには何かを言えず沈黙する燎。
そこからしばしののち、口を開こうとしたその直前。
「あ、いや、えと、その! 違うから!」
何故か、ほたるの焦った声が背中から響いた。
「えっと、先輩?」
「なんかこう、きみに在り方を押し付けるとか強制するとかそんな気持ちは全然ないから! 単純にそうだったら良いなって勝手に期待してるだけというか、だからその、雰囲気的になんか激重な感じになっちゃったっぽいけどそんな意図は微塵もないというかそう思わないで欲しいというか、あれこれもうあたし何言っても無駄かな!?」
「落ち着いてください先輩」
どうやら、珍しく普段は言わないことを言った影響でとんでもなくテンパっているらしい。背中越しだと見えないが多分今目とかすごいぐるぐるしてると思う。そんな感じの声だった。
そして、そういう人を見ると逆に冷静になるの法則で燎も落ち着いた。その上で、燎が今言うべきことを告げる。
「……期待、してくださるんですか」
「う。……うん、そうだったら良いなとは思ってます。それは本心です」
「ありがたいです。存分に期待してください。期待で崖から突き落として下さっても構いません」
「そこまではしないよ!?」
燎も割と勢いで言ったが、そのくらいでも良いと思ったことは間違いない。
そうして、ようやく。燎も自分の中で、心を決める。
「……そうですね。俺も、俺がそう在れたら良いと思いました。馬鹿みたいな夢に向かって、何があってもまっすぐに進んで。それ自体を楽しいと思えたら、間違いなく素敵だろうなって」
「!」
続く言葉で、ちゃんと伝わったことも理解したのだろう。
嬉しそうに「うん!」と告げ、再度燎に背中を預ける。先ほどよりも、心持ち深く。
燎ももう一度ペダルを踏み締める。……今、やりたいことは一つだ。
「とりあえず……走りましょうか、行けるところまで。少し加速しても良いですか?」
「うん、良いよ! 限界速度の向こう側まで行っちゃおう!」
「そこまではしませんよ!? 安全運転はします、危ないのは先輩の方なんですから!」
そんなやりとりの後、二人笑って。改めて、夜明けに向かって走り出す。
きっと、今だけは。このままどこにだって行けると、そう信じて。
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