16話 夜の旅
誰も居ない夜の街路を、ほたると二人で走る。
夜の街は、思った以上に別世界だ。いつもよりも静かな色、いつもよりも澄んだ空気。それらに包まれれば、よく知っているはずの道でさえも全く違うものに変わる。
そんな中、二人だけで旅をするのは……この瞬間だけ、自分たちがこの世界の中心になったようで。これだけでもうやってみてよかったと、そう思えるくらいには特別に心地よい体験で。
それを感じながら……改めて思ったことを、燎は呟く。
「……先輩は、すごいですね」
「!? ど、どしたのいきなり!?」
背中でほたるが狼狽する気配がして、言葉が足りなさすぎたと燎も続ける。
……ほたるの優れた点。それは出会ってから今日までの一月半の間に色々と見てきたが、その中でもあえて一つ、燎が最もすごいと思う点を挙げるなら。
それはやはり──『やってみたいと思ったことを一切躊躇わない』ところだと思う。
「普通は、『やってみたい』の後には大抵何かしらの『でも』が来ると思うんですよ。自分の能力の不足だったり、時間や気力の不足だったり、或いは失敗を恐れる心だったり」
そういう意味で……本当に『やりたいことを全部』できる人なんて、まずいない。
大抵の人は、やってみたいことのうちほとんどは実行に移さず終わるのだろう。
……でも、ほたるは。
「先輩は、本当に躊躇わない。少なくとも、今俺が挙げたような自分の中の『できない理由』に負けることが絶対にない。本当の意味で『やってみたいことを全部やる』つもりでいつだって行動してる」
飛び込むことに躊躇いはなく、失敗の恐怖にも負けることなく。
……思えば、最初に会った時もそうだった。『全力で後輩を歓迎したい』の意思でどこまでも真っ直ぐに行動して、その結果の失敗も色々あったけれど、少なくともそれを理由にやってみたことを後悔は一切していなかった。
「とりわけ、先輩みたいに学校の中でも人気があって、あの高校の基準ならきっと多くの人から見て『成功』してる部類の人なら、尚更失敗は恐れてもおかしくないのに。……そういうところが、本当に、すごいなって」
「えと、その……普通にすっごい照れるんだけど……」
言葉通り多分に照れの入った声でそう告げ、むず痒そうに背中を揺らすほたる。
自転車二人乗りの上というある種逃げ場のないところでこんなことを言ってしまったのは申し訳ないが、それでも言いたかった。何故なら、
「……なんで、そこまでできるんですか?」
続くこの一言を、どうしても聞きたかったから。
「!」
「何か特別な理由とか……考え、信念とか、そういうのがあるんですか。……あって欲しいっていう、俺の願望も入っていることは否定しません。それでも、そういう行動ができる理由があるのなら……教えて、欲しいです」
真剣な相談の気配を感じ取ってくれたのだろう。
「……うん、そうだね。ちゃんとたくさん話そうって、言ったもんね」
ほたるも荷台の上で座り直し、再度燎に背を預け。
「──あるよ。あたしがこうする、きっと特別な理由」
「!」
静かな声で、そう告げる。
「あんまり話したことはないし、多分普通の視点から見れば結構変な理由だって思われる感じのやつなんだけど……いいかな?」
「はい、ぜひ」
今更、そこで躊躇はしない。燎の迷いない返答を聞いてほたるも覚悟を決めたか、一つ息を吸ってから、こう、話し始めた。
「あたしはね。……『物語の主人公』に、なりたいの」
彼女の原点。彼女にとっての、行動指針となる特別な何かを。
「えっ、と……?」
「うん、これだけ聞いたらかなり意味不明だよねごめんね! 順を追って話します!」
流石にその一言だけでは意味を捉えきれず困惑する燎に、慌てた様子でほたるは続ける。
「えーっと……あたしが漫画を描いてることはかがりくんもご存知だと思うんだけど」
「ご存知ですね」
「こんなのは聞いたことないかな? 『作家は体験したことしか描けない』ってやつ」
聞いたことは、もちろんある。
とりわけ何か物語を紡ぐ人が話題に上がった時は、議論される鉄板の一つだろう。
「よく聞きますけど……普通にそんなことありませんよね?」
「そだねー。だってそれならファンタジー描いてる人はなんなのって話になるし、ていうかあたしが今連載してる作品にも魔法あるけどあたし魔法使えな……今はまだあたしの中では使えないという認識になってるし!」
「若干未練があるのは分かりました」
やや話が逸れかけた。それを察してほたるが声色を戻し、こう続ける。
「……まぁ、そんな感じ。でも……まるっきり間違いってわけでもないんだよね」
「?」
「『描けない』とまではいかないけど、『体験したことの方が描きやすい』のは確か。とりわけキャラクターの内面や心情に関して、どれくらいを空想にしてどれくらいを体験から落とし込むかっていうバランスは、作家によって違うと思ってて」
それは確かに、納得できる話だ。頷く燎に、ほたるは続けてこう告げてきた。
「その点であたしは──多分かなり極端な『体験したことしか描けない』タイプなの」
「え」
「あ、悪い話ってわけでもないんだよ? その代わりちゃんと感情移入できた子に関してはすごく繊細な描写ができる、それは長所だって担当さんやはるさんにも言ってもらったし、あたしもそこを伸ばしたいって思って今頑張ってる」
空想でも、描けないことはない。
けれどやはり、自らの体験から落とし込んだ感情で動かした子の方が段違いに生き生きと動かせるし、動かしていて楽しく魅力的になるのだと彼女は語る。
それを踏まえた上で、彼女は次の話へと向かう。
「それでね。……あたしにも、いつか描いてみたい理想のお話があるの」
「理想、ですか」
「うん、かがりくんにとっての『夜空の曲』みたいなものかな? 特に主人公に関しては結構はっきりこうだって決まってて、そういう子が何かに向かってどこまでも進むような、素敵な世界をいっぱいに大冒険するような……そんなお話が、今のあたしの理想」
明確な形があるのだろう。ひょっとするとそれも、彼女が早くからプロになれた強さの一つであるのかもしれない。
そう思う燎に対して……満を持して、と言うような口調でほたるは告げる。
「というわけで、かがりくん。問題です!」
「え、はい」
「あたしには、こういう子を描きたいっていう『理想の主人公像』があって。その子をしっかり『体験したことから描く』タイプのあたしが描くには、どうしたら良いと思う?」
そこで、繋がった。
「──『自分が理想の主人公を体験する』ですか」
「正解! それがあたしの、『物語の主人公になりたい』ってこと」
最初に言っていたことに、筋を通して。
その上で、ほたるは語る。今までの行動の裏にあった思いを。
「だから、あたしはいつでも『理想の自分』で居たい。そう思って、あたしの思う最高に格好良くて、眩しくて、可愛くて素敵な子になるために頑張るって決めたの」
「……」
「理想のあたしは、やってみたいことを躊躇ったりしない。追う夢があるからって、今高校生であることを、今しかできないことを諦めたりもしない。前向きで、辛いことがあってもめげなくて、いつでも素敵なもの全部を求めて真っ直ぐに走ってる人で居たい」
「それは……その、きつくは、ないんですか」
言い方を選ばないのであれば、それは理想の強制だ。
それを自分に課すのは、辛かったりしんどかったりしないのか、と。
けれどほたるは、その言葉に対して微塵も声に翳りを乗せず。
「そう思わないって言ったら嘘になっちゃうかな。でも──それ以上に、楽しいよ!」
「!」
「だってそうでしょ? 程度に差はあるかもしれないけど、『物語の主人公みたいになりたい』って思いは、誰もが持ってるもので。あたしは、幸運なことにそれにもう一つ理由を乗せられてるだけ」
そうして、彼女は大きく手を伸ばして。
「だから、あたしはどこまでも追いかけるよ。躊躇ってなんかいられない、やるかどうかで考えてる時間も勿体無い。多くの物語の主人公と、あたしは今同い年なんだから。理想を目指さない時間なんて、きっと一瞬だって無いんだって信じてる」
恥じることなど、何一つないのだと誇るように。
ここから見える世界の全てに、挑戦するんだと宣誓するように。
「無理だって、無茶だって言われても諦めてなんてやるもんか! あたしは全部やる、全部追いかけて手を伸ばして、素敵なものを一つでも多く拾い集めたい。そうやって、あたしはいつだってどこだって、全身全霊、全力全開で!」
明るく、眩しく美しく。そして楽しさに満ちた声で、ほたるは告げる。
「──恥ずかしいくらいに。あたしは、『あたし』で生きていたいんだ」
「……」
……何度目だろうか。
誰か一人の内側に秘めた、凄まじいものを見て圧倒されるのは。
「……すごい、ですね」
それしか言えない、自分が恨めしいくらいだ。
「そうやって、走り続けてきたから今の先輩があるんですね。その年でプロになっているのも納得で。……憧れます、とても」
何を言っても、今の自分では言葉が上滑りするように思えてならない。
けれど、やはり。ほたるの在り方を見ていると、どうしようもなく憧れて、眩しくて。今までにないほど、胸が熱くなる。それはきっと、間違いない。
「ありがと! というわけで、あたしのお話はこんな感じ」
それを探ろうとする燎に、続けてのほたるの声が届く。
「だから──今度はあたしが、かがりくんに聞いて良いかな?」
「え?」
「……実は、ずっと考えてたんだよね。この前あたしが無茶な誘いをしちゃって、きみに断られちゃった時から。きみの気持ちとか、考えてることとか……後はその上での、あたしの聞きたいこととか」
少しばかり驚く……けれど、彼女がそういう人だとは今の話で尚更良く分かった。
「……いちばん聞きたいことは、やっぱり一つ。良い?」
「はい」
確認に頷いて、ほたるは語り始める。
「きみは、昔に聞いた『夜空の曲』に憧れて自分も曲を作り始めたって言ってたけど」
「……」
彼が自身を見つける、最後のピースとなる一言を。
「──どうして、その曲に憧れたの?」
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