バイク事故で出会った女性が俺の運命を変えた

春風秋雄

目が覚めると、俺は病院にいた

目が覚めると、年配の看護師さんが俺の顔を覗き込んでいた。

ここはどこだ?病院か?

そうだ。俺はバイクで転倒したのだ。山梨県の山道を走っていて、突然飛び出してきた鹿を避けようとしてバランスを崩し、そのままバイクともども地面を滑って行った。それからの記憶がない。

「目が覚めましたか?ご自分の名前言えますか?」

看護師さんが俺に問いかけてきた。

「常盤康隆(ときわやすたか)」

「生年月日を言えますか?」

「1985年10月3日」

「よかった。ちゃんと言えますね」

「僕は生きていたんですね」

「右足を骨折されていますけど、後は擦り傷と打撲程度です。ヘルメットがかなり傷んでいたので、心配したのですが、脳に異常はないようです」

「バイクで転倒したときは、もうダメかと思いました」

「ヘルメットが守ってくれましたね」

「僕を助けてくれた人は?」

「車で通りかかった女性が救急車を呼んでくれたのですよ。ちょうどこの病院へ来る途中だったみたいです」

「患者さんですか?」

「お父さんが入院されていてね、そのお見舞ですよ。そのうち会えると思いますよ。ちゃんとお礼を言っておきなさいよ」

看護師さんはそう言って出て行った。

少し経ってから、医師がやってきて、簡単な診察をしたうえで、症状の説明をしてくれた。右足を骨折していたので、ボルトを入れる手術をしたこと、あとは擦り傷が数か所あるだけで、目立った外傷はないが、ムチウチなどの症状が出るかもしれないと言われた。1週間程度で退院は出来るが、その後通院とリハビリが必要だということだ。


俺は2人部屋の病室に移された。俺のベッドは入り口側で、窓際のベッドには年配の男性が寝ていた。一応挨拶をしておこうと、その男性に「常盤と言います。よろしくお願いします」と言うと、

「ああ、俺は杉浦だ。あんたは足かい?」

「ええ、バイクで転んで」

「俺は鎖骨をやられた。工場で機材が当たってね。若い頃にはそんなミスはしなかったんだけどね」

工場で働いているのか。見た目は60代と思われる。

「入院は長いのですか?」

「まだ3日目だ。もうそろそろ退院しないと、工場がヤバイんだけどな」

「工場を経営されているのですか?」

「経営たって、社員が10名程度の町工場だけどな」

そういえば、俺が入院したことを弟に知らせるのを忘れていた。俺は看護師さんが持ってきてくれた俺のカバンからスマホを取り出して、電話しようとした。

「常盤さん、病室内は携帯電話禁止だよ。電話するなら面談室か携帯電話ブースへ行ってしなければダメだよ」

と杉浦さんに注意された。面談室か携帯ブースでと言われても、この足では動きようがない。諦めて俺はスマホをバッグにしまった。


翌日、お見舞と思われる女性が病室に入って来た。入り口側にいる俺に気づいて軽く会釈をしてきた。俺も寝たまま会釈をする。綺麗な女性だ。どうやら杉浦さんの娘さんのようだ。

「お父さん、具合はどう?」

「具合も何も、鎖骨のところがちょっと痛いだけなんだから、栞からも、先生にもう退院できると言ってくれ」

「そんなこと言ったって、先生がもう大丈夫っていうまではダメだよ。無理してまた入院なんてことになったら、それこそ大変じゃない」

「そんなこと言っている間に、工場はつぶれてしまうぞ」

「お父さんがいない間は田中さんが指揮とってやっているから大丈夫だよ」

「そりゃあ今注文をもらっている分は大丈夫だろうけど、エスエヌティー工業の発注が止まった分をどこかに営業して取り返さないと、来月の給料は出せないんだぞ」

エスエヌティー工業?エスエヌティー工業って、あのエスエヌティー工業のことか?

「だからと言って、今お父さんが退院して、どこかエスエヌティー工業に代わる取引先のあてがあるの?」

「ないから、片っ端からあたるしかないだろ」

「それより、新しい人が入ったんだね」

娘さんが俺の方を見て言った。

「ああ、常盤さんと言うらしい。バイクで転倒して足を骨折したそうだ」

「バイクで転倒した常盤さん?」

娘さんがいきなり俺のベッドへやってきた。

「大丈夫だったんですね!心配したんですよ」

「えーと、・・・」

「私がバイクで倒れているのを見つけて救急車を呼んだんです」

「ああ、あなたが。ありがとうございました。おかげで助かりました」

「バイクは廃車ですか?」

「ええ、保険会社に連絡して廃車手続きをしてもらいました」

「あれ、カワサキのニンジャでしょ?もったいないわね」

「よくご存じですね」

「私もバイク好きだから」

それを聞いて向こうのベッドから杉浦さんが口を出した。

「こいつは女だてらにバイクを乗り回して、その挙句に32歳になるのにいまだに独身なんだから」

「バイクと独身は関係ないでしょ?それに女だてらと言うのはやめて。父親でもセクハラで訴えるわよ。女性ライダーはたくさんいるんだから」

綺麗な外見に似合わず、なかなか勇ましい娘さんだ。


松葉杖で歩けるようになって、ようやく弟の義隆に電話した。もともと10日間の休暇と言っていたので、のんびりバイクでの旅行を楽しんでいるのだと思っていた弟は、事故で入院したと言ったら驚いていた。会社の経営は俺がいなくても、今の時期は専務の弟がいれば何とかなる。すぐに病院へ向かうと言う弟に、大丈夫だから会社を頼むと言って電話を切った。俺が経営しているトキワ工業エンジニアリングは、上場こそしていないが業界でトップ3に入る二輪車・四輪車の部品の制作会社だ。バイク好きだった親父が、趣味が高じて会社を作ったといったところだ。おかげで俺も弟もバイクは大好きだ。親父の代では2輪車の部品が主だったが、俺の代になってから四輪車にも進出した。

電話ブースから出て、椅子に座って外を眺めていたら、電話ブースに駆け込む女性がいた。杉浦さんの娘さんだ。どうやら仕事の電話のようだ。会話は聞こえないが、緊迫した様子がこちらにも伝わってくる。

電話を終えて出てきた栞さんが俺に気づいた。

「常盤さん、松葉杖には慣れましたか?」

「なかなか慣れませんね。いつになったらバイクに乗れることやら」

「焦りは禁物ですよ。お仕事の方は大丈夫なのですか?」

「会社は弟がいますので、何とかやっているでしょう」

「常盤さんは社長さんだったのですか?こちらへはお仕事で?」

「いや、たまに休暇をもらってバイクで旅行をしているのです。今回は10日間の予定だったのですが、2日目でクラッシュしてしまいました」

「それは残念ですね。それより、ご家族の方は心配されたでしょ?」

「家族は弟だけです」

「奥さんは?」

「私はバツイチなので」

「そうですか。それでバイクで一人旅なんですね。私もバイクで旅行してみたいです」

「バイクは何に乗っているのですか?」

栞さんが車種を言った。古い型だが、良いバイクだ。うちの会社の部品も使っている車種だ。

「今度一緒にツーリングしましょう」

栞さんは嬉しそうに頷いた。

その時の会話を機に、栞さんは俺を見つけると話しかけてくるようになった。病室ではお父さんへのお見舞いはそこそこに、俺のベッドのところまで来て、バイク雑誌を片手に色々話してくる。杉浦さんが「お前は誰のお見舞にきているのだ」とぼやくほどだった。

栞さんは美人で、明るくて、よく気が付く人だ。多少気が強いところはあるが、どうして今まで独身だったのだろう。俺はそのことをお父さんが検査でいない時に尋ねた。

「単純に結婚しようと思える男性が現れなかっただけよ。ちょっと付き合った男性はバイクは危ないからやめろと言う人ばかりだし。だから結婚なんか面倒だと思ってきたの。それにお父さんのこともあるし。お母さんが亡くなってからは、私が身の回りのことはすべてやっているから、私がいなくなったらお父さん、困るだろうしね」

そうか、杉浦さんのところは、奥さんがいないのか。娘の栞さんは大変だろうなと思った。


1週間経って、医師から退院を告げられた。俺はもう少し入院していても良いと思ったが、そういうわけにはいかないようだ。今後は通院で経過を見ることになったが、ここに滞在してこのままこの病院に通うのか、東京へ戻って新たに病院を探すか迷ったが、俺は弟に連絡し、このままここに残って通院すると言った。奇しくも杉浦さんと同じ日に退院ということになった。

「こっちに滞在して治療するのですか?」

栞さんが聞いてきた。

「東京へ戻って新たに病院を探すより、勝手知ったるこっちの方が良いかなと思って」

本当は、ここに通えば栞さんとまた会えるかもしれないという、かすかな期待があった。

「その間、どこに住むんですか?」

「2~3日はホテル住まいにして、ウィークリーマンションでも借りようかと思っています」

「でもそれでは食事とか大変でしょう?」

「それは東京へ戻っても一緒だから。弟は所帯を持って家を出ているし、東京でも独り暮らしには変わらないですから」

「だったら、うちに滞在しなさいよ」

「え?杉浦さんの家に?」

「そうすればいいじゃない。どうせ私はお父さんの世話をしなければならないのだから、一人も二人も同じだよ」

俺は杉浦さんの顔を見た。杉浦さんも驚いたような顔をしている。

「いやいや、そんなご迷惑をかけられませんよ」

「迷惑なんて全然思わないわよ。ねえ、お父さん」

杉浦さんは栞さんからそう言われて何も言えずにいる。

「じゃあ、荷物を持って、一緒に車に乗った乗ったー」

栞さんはそう言って、杉浦さんの荷物と俺の荷物を両手に持って歩き出した。

「ご迷惑じゃないですか?」

俺は小声で杉浦さんに聞いた。

「まあ、あいつがそう言うんだから、いいんじゃないのか」

杉浦さんは仕方ないといった、投げやりな口ぶりで返した。


杉浦さんの家は工場と隣接していた。工場では機械が動く音がしている。

「昼間は機械の音がうるさいかもしれませんけど、夜は静かですから」

俺が工場を気にしているのを察して栞さんがそう言った。

「何を作っている工場なのですか?」

「メインは自動車部品の点火コイルです。その他にも頼まれれば色々作っています」

栞さんが説明してくれた。

「うちはね、独自の機械で作るから品質には自信があるんだ」

杉浦さんが得意げに言った。

「お父さんが開発した機械なの。特許まで取ったんだから」

「それはすごい」

「でも、うちは下請けの、また下請けだから、上からの注文がなければ宝の持ち腐れだよ」

杉浦さんがぼやくように言う。

「それだけの技術があれば、どこからでも注文はあるのではないですか?」

「それが、今までメインで注文を受けていたところから、単価の引き下げを言い渡されてね。こちらとしてはそんな単価では赤字だから無理だと言ったら取引停止になってしまったところなんだ」

その相手がエスエヌティー工業ということか。あの会社ならやりそうなことだ。

「捨てる神あれば、拾う神がありますよ。頑張れば何とかなりますよ」

「そうならいいんだけどね」

杉浦さんは、遠くを見るように力なく言った。


栞さんは、俺に1階の一部屋をあてがってくれた。杉浦さんと栞さんの部屋は2階だ。食事は家庭的な料理で、外食中心だった俺としては嬉しい。病院への通院は栞さんが車で連れて行ってくれた。杉浦さんと同じ通院日であれば二人一緒だが、俺だけのときもある。その時は、ドライブを楽しんでいる気分だった。杉浦さんがいないときは病院帰りにお茶をしながら色々話すのが定番になった。栞さんはバイクだけではなく、スポーツにも詳しく、本もたくさん読んでいて、俺と話が合った。俺はどんどん栞さんに惹かれていった。


3週間くらいした頃、杉浦さんのギブスはとれ、杉浦さんは新規開拓に行くと言って、1泊の出張へ出かけた。その日の夜は初めて俺と栞さんの二人きりで過ごすことになる。杉浦さんは出かけに

「お二人さん、今日は邪魔者がいないから、好きなように過ごしてくださいな。でも、常盤さん、何かあった時は、ちゃんと責任とって、こいつをもらってくれよ」

と笑いながら言って出て行った。

杉浦さんがそんなことを言うものだから、いつも他愛ないことで会話が弾むのに、二人とも意識して会話がはずまない。ほとんど無言のまま夕食を終え、風呂に入ることにした。

脱衣場に入って、服を脱いでから、俺はいつものように、ギブスにビニール袋を被せ、その上からラップをぐるぐる巻きにしようとした。ところが、ラップをひと巻きしたところでラップがなくなった。しまった。残量を確認せずに持ってきてしまった。もう一度ズボンをはいて取りにいくか?と思っていたら、栞さんが脱衣場の外から声をかけてくれた。

「常盤さん、ラップ足りました?もうなくなりそうだったのを忘れていて、新しいのを持ってきたのですけど」

「あ、助かります。どうしようかと思っていたところでした」

俺はそう言ってドアを少しだけ開けようとした。すると、同時に栞さんもドアを少し開けようとしたので、思わずドアが思いっきり開き、片足立ちの俺はバランスを崩した。俺の「うわー」と言う声と、栞さんの「キャー」という声が重なって、俺は栞さんに覆いかぶさるように倒れこんだ。俺の下敷きになった栞さんが俺の下から

「大丈夫ですか?」

と聞く。

「とりあえず大丈夫ですけど、起き上がれません」

「ちょっと待ってください」

栞さんはそう言うと、俺の下から抜け出して、立ち上がり、俺に手を貸してくれる。俺は素っ裸の、何とも情けない恰好で栞さんの助けで何とか起き上がった。栞さんの肩を借りながら脱衣場へ戻る。俺はありがとうと言いかけたが、栞さんはそのまま浴室まで俺を連れて行き、バスチェアーに俺を座らせた。そして脱衣場の外に置きっぱなしになっていたラップを取ってきて、俺の足に巻いてくれた。栞さんは「これで大丈夫ですね」と言って、浴室から出て行った。


風呂からあがり、居間に戻ると、栞さんは紅茶を入れてくれた。

「さっきはありがとうございました。すっかり見られてしまいましたね」

「男性の裸を見たのは何年ぶりでしょう」

栞さんはそう言って笑った。

「結婚のことは置いといて、最近はお付き合いしている人いなかったのですか?」

「もう何年もいないですね。今はバイクが恋人ですよ」

「結婚する気は本当にないの?」

栞さんはジッと俺の顔を見てから口を開いた。

「以前言ったように、私のバイク好きを理解してくれる人で、良い人がいればいいなとは思うけど」

「私は栞さんのバイク好きを応援しますよ」

「常盤さんは良い人だし、バイクのことも含めて趣味も合うと思っている」

「だったら、私と付き合ってもらえませんか?」

一瞬栞さんは黙り込んだ。

「うれしい。すごくうれしいです。でも、恋人として付き合うのはいいけど、私はこの家を離れられない。だから結婚はできないと思ってください。それでも良いなら私と付き合って下さい」

俺は返事をためらった。栞さんがここを出ることが出来ないとなると、遠距離恋愛になる。山梨と東京ならさほど離れてはいないが、足が完治したら、それなりに仕事が待っている。頻繁に山梨まで来るのは難しくなるかもしれない。そして、その先に結婚というゴールはないとすると・・・。

「そんな、真剣に考えなくてもいいのに。もっと気軽に遊び相手の、都合の良い女って思ってくれたらよかったのに。私、お風呂に入ってくる」

栞さんはそう言って立ち上がり、行ってしまった。


俺が与えられている部屋に入ると、俺が風呂に入っている間に栞さんは布団を敷いてくれていた。布団に入り、枕元のスタンドだけにして本を読んでいると、そっと襖が開き、栞さんが入ってきた。枕元に座った栞さんは改まって言った。

「さっきの話、結婚のことは置いといて、私と付き合って下さい。私にとって常盤さんのような人は、もう一生現れないと思う。このまま常盤さんを東京へ帰したら、私は一生後悔すると思う。だから、お願い・・・」

栞さんはそう言うと、俺の布団に入って来た。

「私も栞さんとのこの出会いを逃したら、一生後悔すると思います。結婚のことは何か良い方法があるかもしれません。それはおいおい考えましょう」

「もう何も言わないで」

栞さんはそう言って俺の口をふさいだ。


翌日、俺は気まぐれに栞さんについて工場に入ってみた。ここに来てかなりの日数が経っているのに、工場に入るのは初めてだった。杉浦さんは町工場と言っていたが、10人程度の男性社員の他にパートと思われる女性が15人くらいいる、それなりの会社だった。作業の邪魔にならないようにそれぞれの製品を見て回った。仕事柄、何の部品なのかは見ただけでだいたいわかる。ところが、ある製品に目が留まり、それが何なのか見当がつかなかった。田中さんという現場を任されている役職者が近寄ってきて、それはこの会社で独自に開発したイグニッションコイルだと説明してくれた。特許を取得した機械で制作したものらしい。その性能について説明を受けて納得した。なるほど、エスエヌティー工業の狙いはこれだったのか。俺は工場を出ると、すぐに弟に電話した。


栞さんと夕食を食べていると、杉浦さんが出張から帰って来た。夕食はまだだという杉浦さんが食卓につき、俺たち二人をみて「おや?」という顔をした。俺はドキッとしたが、とりあえず言わなければならないことを言おうと口を開いた。

「新しい取引先はみつかりましたか?」

「そんなに簡単に見つかるわけないさ」

「杉浦さん、今日工場を見させてもらいました」

俺がそう言うと、杉浦さんは怪訝な顔をした。

「今までプライベートでお付き合いしておりましたので、申し遅れましたが、私はこういう者です」

俺はそう言って名刺を差し出した。

「トキワ工業エンジニアリングって、あのトキワ工業エンジニアリングか?そして、常盤さんはその社長さん?」

「ええ。それで、是非ともうちと取引させて頂けませんでしょうか」

「うちがトキワ工業エンジニアリングさんと?」

「そうです。あの試作のイグニッションコイルを是非うちで使わせて下さい」

「あれをか?でもエスエヌティー工業はあれを見ても、鼻もひっかけなかったぞ?」

「杉浦さんのところは、エスエヌティー工業からお金を借りていませんか?」

「機械を増設した際に2000万円ほど借りた。返済はいつでもいいって言われているから、まったく返していないけど」

「最近、エスエヌティー工業の子会社にならないかという話はありませんでしたか?」

「あった。以前からあったけど、取引停止になってから、また言ってきた」

「それは多分、杉浦さんが持っている特許が欲しいのですよ。取引停止にして、経営を行き詰まらせて、そして吸収合併して特許を自分のものにしようとしているんです」

杉浦さんの顔から血の気が引いてきた。

「杉浦さん、2000万円はうちが融資しますので、すぐにエスエヌティー工業に返済してください。そして、適正な価格でうちと正規の取引をしてください」

杉浦さんは茫然と俺の顔を見ていた。


弟が山梨まで来て、正式に杉浦さんの会社と取引契約を交わした。それと同時に、エスエヌティー工業に返済する2000万円と、当面の運転資金として500万円を貸し付けた。杉浦さんは何が何やらわからないと言った感じだったが、一番喜んでくれたのは現場責任者の田中さんだった。田中さんは倒産も覚悟していたのが救われたということもあるが、何より、自分たちが開発した商品が日の目を見たのが嬉しくて、泣きながら俺に礼を言ってくれた。


事務的なことが一段落したあと、杉浦親子と3人で夕食を食べていると、杉浦さんがおもむろに話し出した。

「常盤さんとは、不思議な縁だなあ」

「そうですね。病室が一緒だったのがきっかけですからね」

「借りたお金は必ず返すから」

「無理をしないように、少しずつ返してください」

「それで、うちは担保に差し出すものが何もない」

「担保はいらないと言ったじゃないですか」

「いや、それでは俺の気が済まない。それで、担保に栞を差し出したいと思っているのだが、どうかな?」

「お父さん、何言い出すのよ。私はここを出て行く気はないからね」

「常盤さん、栞が結婚しないのは、俺のことが気にかかるからだということは、俺が一番わかっているんだ。もっと早く再婚しておけばよかったんだろうけど、こいつの母親のことが忘れられなくてね。でも、娘が親のために幸せになれないなんて、親としてこんな悲しいことはないよ。こいつの母親に叱られるよ。だから、頼む。栞を担保として連れて帰ってくれ」

「杉浦さん、その話はお断りします」

「常盤さん・・・」

「担保ということは、返済が終わったら返さなければいけないということですよね?私は返済が終わっても栞さんを返すつもりはありません。ですから、担保ではなくて、栞さんを私に下さい」

俺のその言葉を聞いて栞さんの目からポロリと涙がこぼれた。

「じゃあ、何かい?2500万円は結納金と思っていいのかい?」

「お父さん!」

「ダメです。結納金は別にちゃんとお渡ししますから、返済はちゃんとしてください。その代わり、杉浦さんの身の回りの世話をしてくれる人をちゃんと探しますから」

「ああ、それなら大丈夫だ。身の回りの世話なら、パートの敏子さんがいつでも来てくれると言っているから」

俺と栞さんは開いた口がふさがらなかった。


 

※ この物語はフィクションです。物語に登場する人物・団体名・企業名はすべて架   空のもので、実在の人物・団体・企業とは一切関係ありません。また、物語に登場する工業技術等においても、すべて架空のものです。

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