あの日、思い出せてよかった

こう

あの日、思い出せてよかった


「ヨハンナ! 仕方がないから結婚してやる!」

「お断りします」

「何故だ!?」


 幼馴染みのアードルフ・ランデスコーグ伯爵子息が居丈高に言い放った言葉を、私は胸を張ってきっぱりと撥ね除けた。

 撥ね除けられたアードルフは目を剥いて驚愕の声を上げているけれど、なんで了承を得られると思っていたのかしら。金髪碧眼の王子様フェイスだからって、即頷くわけがないわ。

 だって、


「私が既婚者だからよ」

「既婚者といっても親より年上の老い先短い老人相手じゃないか…!」

「老い先短くても旦那様は旦那様よ」


 というか事実だからって老い先短いって言わないで欲しいわ。事実だからって。

 旦那様は確かに寝たきりのご老人だけど、頭ははっきりしているご老人なんだから。 


「侯爵夫人としてやっていくつもりか? どうせひ孫が成長するまでの中継ぎでろくな権限も与えられない癖に。それよりなら格は下がっても俺の嫁として、伯爵夫人として華やかに社交する方が有意義だろう!」

「だから、結婚しているんだってば」

「相手の手がまだ動く内に離縁して貰え! 同意書が書けなくなってからでは遅いんだぞ!」

「当たり前みたいに離縁させようとしないでよ」

「そうしないとお前が俺の嫁になれないだろうが…!」


 あんまりな発言に、私はついつい苦笑してしまった。

 偉そうなことを言っているけれど、こいつ泣きそうな顔なのよね。


 昔から付き合いのある幼馴染み。

 私が前世の記憶を思い出す前からの付き合いで、なんなら初恋相手。うん、きっと将来結婚するんだろうなってぼんやり思うくらいには一緒に居た異性。

 多分、あっちもそう思っていた。婚約者じゃないけど、距離近かったし。王子様みたいな顔で女性に人気があったのに、それでも誰とも付き合わず私の傍に居たもの。

 でもそうならなかった。


 私はヨハンナ。

 ヨハンナ・ヴァインダー子爵令嬢…現、ヨハンナ・リンロード侯爵夫人。

 72歳の夫を持つ、18歳の若き新妻だ。

 私が結婚したのは…そう、今から半年ほど前のこと。


「ヨハンナ、結婚してくれ」


 一瞬プロポーズかと思った。

 言ったのがお父様じゃなければプロポーズだったわ。

 でもって沈痛な面持ちじゃなければすごく嬉しかった。

 明らかに裏事情がありそうな表情なのに、結婚出来ると思ったら舞い上がった。私ってば安い女だわ。


 だって前世彼氏いない歴42年、結婚したかったけど職場と自宅の往復ばかりで出会いを求める暇も…って、なんかやばい情報量を電波の如く受信―――!!

 容量キャパオーバー容量キャパオーバー!


(優秀な回路ね。これだけ重い情報を一度に送信するなんて! だけど受け取る側の容量キャパが間に合ってないわ多すぎるし重すぎる! 受け取りきれない! パンクしちゃう! データを受信しきれません!)


 私はぶっ倒れた。


 思考回路をショートさせながらもなんとか記憶に焼き付けたのは、私が未婚のまま働きすぎて身体を壊し病死した喪女だということ。


 もっとあったでしょ焼き付ける記憶が。もっとあったはずよ今世に有効利用出来る記憶。


 だけど脳の容量が少なすぎて多くを受け取れなかった。

 地球の情報からして多い。何カ国あるの。世界情勢とか自然と思い出せるくらいの知識量。日本語とか今世で使わないのにひらがなカタカナ漢字の三種類しっかり思い出しちゃった。

 今世でどう使用できるのかしらこれ。急すぎて対応できないわ。

 しかも思い出したのは幼少期とかじゃなくて、断れない結婚を告げられたときって。


 そう、断れない結婚。


 お父様の事業が失敗して、大損失で領民達の税金を上げてもやりくりできない瀬戸際。

 多くの家に支援を断られる中、最後まで支えてくださったのがリンドロード侯爵家。

 我がヴァインダー子爵家には、リンドロード侯爵家にご恩がある。


 そして領地が程よく落ち着いてから、支援してくれた侯爵家から、学園を首席で卒業した私に興味があると遠回しにお言葉を頂いた。

 どうやら支援してくれた理由も私にあるらしく…侯爵家の使者は、侯爵様が娘のヨハンナをお望みだと明言した。


 カスペル・リンドロード侯爵。72歳。

 娘夫婦に侯爵家を任せて引退したが、娘夫婦が息子を残して早くに逝去。侯爵の座に舞い戻り孫を育てるも、孫が後を継ぐ前に馬車で事故死。

 現在リンドロード侯爵家には年老いた侯爵と、忘れ形見の幼い継承者が一人だけ。

 侯爵は自分が冥府に旅立つ前に、ひ孫を託す相手を探していた。

 侯爵家を裏切らず、ひ孫を裏切らず、ひ孫を育て上げる事の出来る優秀な人材を。


(それはそれで荷が重いんだけど!)


 つまり家庭教師が欲しいのかと思えば、お父様が下した決断は輿入れ。

 私はリンドロード侯爵家へのご恩のため、権限の制限された侯爵夫人となって後継を育てるべく、侯爵家へ輿入れが決定した。


 ということで、お父様より年上の旦那様ができた。


 結婚を告げられて私が前世の記憶を思い出し唸っている間に、父は全ての書類を整えて荷造りを完了させ、私が寝台から出られるようになった瞬間馬車に乗せて侯爵家へとドナドナした。


 おいこらお父様ー!

 ご恩は理解しているけどお父様こらぁー!


 そうしてやって来た侯爵家は、子爵家では想像がつかないほど大きくて立派だった。

 ただそこにはたくさんの使用人達と、高齢の侯爵様と幼い跡継ぎしかいない。

 出迎えてくれた使用人達に促されるまま進んだ寝室。大きな寝台に横たわっている侯爵様を見て、私はことの深刻さをようやく実感した。


「すまないねお嬢さん…老いぼれの最後の願いに付き合わせる形になって」


 そう言った侯爵様。カスペル様のお声はかすれていた。

 これは加齢の所為だけでなく、この部屋が乾燥している所為だ。この部屋だいぶ乾燥している。

 なってない。なってないわもっと寝たきりのご老人に気を遣った環境にして。


 カスペル様は私が想像していたお姿よりやつれていた。18歳の娘を嫁にと考えるからには下品に元気なご老人かと思えば今にも冥府へ転がり込みそうなやつれ具合。布団から出ている腕がほぼ骨。それでも目元に力があり、口もしっかり動いている。

 お年を召されても若い頃はさぞイケメンだったんだろうなって予想できる顔つき。これぞロマンスグレー。


「私が君に望むのは大きく分けて二つだけだ。

ひとつ。侯爵家の存続。

ふたつ。ひ孫クラーラの教育。

それ以外のことは好きにして構わない。

ただ、侯爵家の身内となるからには、良識ある範囲での行動をお願いしたい」

「それは勿論です」

「婚姻に関してだが…私はこの通り不自由な身体なので、白い結婚になるだろう。しかし侯爵家の後継が育つまで、君には侯爵家を頼みたい。なので、今のところ離縁は考えていない。若い君を侯爵家に縛り付ける形になってしまうが…」

「構いません。婚姻する以上、夫に操を立てるのは当然のことです」


 ヘタに愛人を作って子供を産んで、侯爵家の跡目争いになるのは避けたいしね。

 血筋的に繋がってなくても、侯爵夫人が生んだ子供ってことでややこしい事態になりかねない。何より侯爵家で生まれたのに血のつながりもなく爵位も継げないとなれば子供が憐れだ。ひ孫のクラーラと良好な関係が築けるかもわからない。

 だからたとえ侯爵様がご逝去されたあとも侯爵夫人として立ち回る私は、他の異性に色目を使うようなことがあってはいけない。


 でも結婚ってそういうものよ。


 私は理解していたけれど、侯爵様は申し訳なさそうにしている。下がった眉も素敵だ。なんて素敵なロマンスグレー。


「すまなかった。若いお嬢さんをこんなことに巻き込んで。それもこんな老いぼれの嫁になど…」

「いえそんなほほほ」

「本当は養子縁組の話を進めていたはずなのだが…」


 んんー!?

 あっれ娘を寄こせとか言ってなかった!?

 いや待って、そういえば使者は「娘さんをお望みです」といったが「嫁に」など一言も言っていない。ちなみに私はこの時、家庭教師として望まれたと思っていた。

 しかしお父様が「結婚しろ」といったので、すっかりその方向でまとまったのだと思っていたのだが。


 思っていたのだが。

 …お父様に侯爵家乗っ取りを目論むほどの度量はない。事業を失敗したところからしてわかりきったこと。

 ということは。

 もしかしなくても、お父様の早とちり?


(お父様ふざけんなー!)


 私が逃げないようにと早急に書類を纏めた父に心の中で火を噴いた。


(侯爵様も困惑のお顔なんだけどぉ!!)


 どうやら了承の返事と受理された婚姻届が一緒に送られてきて目が点になったらしい。

 娘より若い子を嫁に貰って困惑している。

 感性が真面まともだ。だからこそ可哀想。

 ちょっと侯爵様がエロじじいだったらどうしようと思っていた私を殴りたくなるくらい真面。


 そして思惑と違う形でやってきた私をそのまま受け入れてくださる柔軟さがすごい。というかここはお父様の勝手に怒ってもよいところです侯爵様。


「娘さんを貰い受けることに変わりはない。どちらにせよ養子縁組した後も、侯爵家を継ぐことはできないので婚姻も見込めない。となれば私の嫁となり侯爵夫人になる方が言い訳もできると考え直しただけだよ」


 普通に考えてこんな老いぼれの嫁に来てくれる筈がないと思っていたからねと笑われて、乾いた笑いしか出てこなかった。

 勘違いはあったがもう書類上は結婚してしまっているので、それでいいかとまとまった。

 お父様のことは、あとできつめに叱っておきますね。

 早とちりのくせに行動が早いから事業でもこけたのに、全然反省していないんだから。


「…おじーたま、おはなちおわった?」


 話が一段落して、すぐ。

 ひょっこり現れた小さな女の子。

 二つに結われたアッシュグレーの髪が小さくぴょこぴょこ揺れて、大きな瞳は泉のように澄んだ碧。小さな鼻に散ったそばかすの可愛い女の子が、自分の顔くらい大きなぬいぐるみを抱えていた。


 この子が恐らく、孫夫婦の忘れ形見。ひ孫のクラーラ様。


 豚…違う、猫…ううん耳が長いから兎…? 多分兎のぬいぐるみを抱えて、とたとたと歩いている。一生懸命カスペル様の寝台までやって来た。

 すぐ傍で椅子に座っている私に気付いているけれど、チラチラ確認しているけれど、寝台まで一直線に向かってぎゅっと上半身を寝台に乗り上げてカスペル様に頭を擦り付けた。


 かっわ…!


「クラーラ。この人がお爺さまの新しいお嫁さんだ。ご挨拶できるかな?」


 はっと顔を上げたクラーラは、私を見上げて一度ぬいぐるみで顔を隠した。ぬいぐるみの奥からちらちらと私を確認しながら、小さな足を何度も揺らし、意を決したようにぬいぐるみを下げた。ぬいぐるみの足が地面にぶつかりくしゃりと曲がったのがかわいい。


「くあーら、でしゅ! あんしゃい!」


 びっと突きつけられた指はちゃんと三本立っていたが、立っていたのは親指だった。薬指ではなく。


「初めまして、おばあさまです!」

「若いのにその呼び方でいいのかい」

「ええ、よいのです! おばあさまなので!」

「ばぁたま?」


 かーああいーいー!


 私は一瞬でひ孫のクラーラに陥落した。




「おい! 聞いているのかヨハンナ!」

「はっ! 聞いてなかったわ何?」

「お前という奴は…!」


 ちょっと意識が半年前まで飛んでいた。

 旦那様の状態から結婚式などとてもできないので、私が侯爵家の後妻に入ったことを知る人は、実は少ない。社交に専念するよりも侯爵家の事業を学び、クラーラと交流を重ねることに重きを置いていたからだ。

 勿論旦那様ともたくさんお話しして、日々交流を深めている。


 旦那様が寝たきりになったのは病気もだが、足腰の筋肉が衰えてしまったことも原因だ。だから体調のよいときは立ち上がる練習をして、足もマッサージを施してリハビリを行っている。

 この世界にも車椅子はあって、旦那様はそれに乗るのも人の手を借りていたが、最近は自分で移動する事ができたとお喜びだった。一人で座れたと報告する笑顔、少年のようで可愛かったです。


 クラーラは物心つく前に両親を亡くし、旦那様も寝たきりで、周囲には使用人しかいなかった。まだ同世代と交流する年でもなく、子供部屋でぽつんとぬいぐるみを抱える日々を過ごしていた。あまり会話もなかったから、他の三歳と比べておしゃべりが拙いのは仕方がない。

 そこに若いおばあさま(私だ)が現れた。

 クラーラは未知の生命体と遭遇した小動物のようにチラチラチラチラ遠巻きに観察しながら距離を縮めた。

 今では一緒にお昼寝をする仲まで距離を縮めた。初めてお膝でお昼寝をしてくれた日は思わずコロンビアポーズを取るくらい嬉しかった。

 ちなみに片時も手放さないぬいぐるみはなくなった母親が我が子に手ずから縫ったものらしく、うさぎだった。

 よかった。「うさぎさんかわいいね」と言ったときに満面の笑みを貰ったので、この時「ぶたさんかわいいね」と言っていたら哀しい顔をさせた可能性がある。よかった予想が当たって。


 クラーラは多分、おばあさまが何かもわかっていないと思う。だけど「おばぁたま」と懐いてくれるのがかわいいので、理解するのはもう少し先でいい。


 なんて再び思考を飛ばしていたら、アードルフがティースプーンでカップの縁を叩いた。チンッと小気味いい音がして瞬きを繰り返す。うっかりうっかり。

 目が合ったアードルフの表情は硬い。目元に力が入っていて、眉間の皺は跡が残りそうなほど深い。


「そもそもお前は俺に嫁いで伯爵家を継ぐ予定だっただろうが」

「誰も明言していなかったけど、皆そのつもりだったわよね。婚約していないのが不思議なくらいだったわ」


 言いながらちょっと冷めた紅茶に口をつける。


「でも、今更言ったところでどうにもならないわ」

「…」

(本当に今更なのに、なんでこんな話ししているのかしら)


 彼と話しているのは私の実家。

 お父様からちょっと来いと言われたときは何かと思ったけれど、説得しろと応接間に放り投げられた先にアードルフを見つけて目が点になったわ。なんの説明もしなかったお父様には、あとできつく報告連絡相談の大事さを反省文として提出させなくてはならない。


 結婚して半年が経ってからアードルフとこの話をしているのには訳がある。

 将来結婚するんだろうなと思っていたアードルフだけど、ここ半年は疎遠になっていたのだ。


 半年前、我が子爵家の事業が頓挫したとき…真っ先に離れたのが、アードルフの生家、ランデスコーグ伯爵家だったから。


 薄情だとは思ったが、伯爵家も裕福な方ではない。無理に支援されても共倒れになった可能性が高かった。

 アードルフは何度も手紙で心配してくれて、友人に支援できないか問い合わせてくれた。成果は出なかったけれど、彼が心配してくれていたのはわかる。忙しさにかまけて、私も彼とのやりとりを少なくしていた。

 だから私が侯爵家に嫁いだ話しも彼らにすぐ届かなかったし、私は社交もしなかったのでもっと噂になりにくかった。

 彼が私の嫁入りを知ったときには、既に数ヶ月過ぎていた。きっと寝耳に水だったに違いない。


 でもまあ、そんな事情だったから、なんとなく結婚するんだろうなと思っていたアードルフとも結婚出来ないんじゃないかしらって思っていた。侯爵様との結婚後も、多少未練はあったけれど諦めもついた。

 …私はそうだったけれど、アードルフは違ったみたい。

 彼は相変わらず、私の前で泣きそうな顔をしている。間違いなく未練たらたらな顔をしている。


 せっかく王子様みたいな顔をしているのに、余裕のない子供みたいな人だ。


「…家の仕事を引き継いだ」

「そうなの」

「少しだが事業も上向いてきている。時間はかかるが侯爵家が子爵家へ支援した分も俺が稼ぐ」

「お金の問題じゃないのよ」

「金の問題だろう。侯爵家は支援金でお前を買ったんだ」

「売ったのはお父様で侯爵家は…いいえ、確かに始まりはお金だけど、もう結婚して半年よ」

「まだ半年だ。年老いた老人に嫁いで半年。寝たきりだと聞くから、白い結婚で間違いないだろ」

「直球か…白いけど…」

「ひ孫の世話なら別の形ですればいい。お前が犠牲になる必要なんかない」


 犠牲か。

 旦那様もそう言っていた。


 確かに若い娘が親より年上の男性に嫁いでそのひ孫の世話を任されるなど、若い時間を犠牲にしていると言われても仕方がないかもしれない。

 ここでアードルフの誘いに頷いて、旦那様と離縁して、クラーラのことは別の視点から支援することは可能だろう。旦那様の最大の目的はクラーラの庇護と教育なわけだから、家庭教師として勤める手も確かにある。


 私はちょっと上から目線だけど素直になれない不器用な旦那様を得て、クラーラとは血の繋がらない曾祖母とひ孫なんてややこしい関係ではなく、家庭教師と生徒というわかりやすい関係に落ち着ける。侯爵家の存続については手を出せなくなるが、優秀な代理人はどこにでも居る。

 私である必要などない。

 私が犠牲になる必要はない。


「アードルフ、私ね…」



 お父様をキリキリ締め上げて、報告連絡相談の大事さについて反省文を5枚書くことを言いつけて、私は侯爵家へと帰った。

 侯爵家の馬車で帰ってきた私を出迎える使用人達。彼らは優秀で、私が問う前に旦那様とクラーラがどこに居るのか教えてくれた。

 今日は旦那様も調子がいいから、車椅子に乗ってクラーラと温室に居るらしい。言われなかったら寝室に向かっていたわ。

 お礼を言って、私も温室に向かう。せっかくだから三人でお父様からお土産としてむしり取った領地のお菓子を頂こう。お茶の準備をお願いして、侯爵家らしく設備の整った温室へと足を向けた。


 いつでも温かな気温を保っている温室。クラーラはそこに咲く白い花…イチゴの花がお気に入りだ。イチゴの生長具合によってはつまみ食いをする困った子なので、子ウサギには十分注意しなくてはならない。


「ただいま」

「おばぁたま! おかえぃ!」


 温室に設置されたベンチにハンカチを広げてぬいぐるみとおままごとをしていたクラーラが一番にお返事をくれる。

 車椅子に座ったまま日光浴をしていた旦那様は、ちょっと驚いた顔で私を出迎えた。


「ヨハンナ…思ったより早かったね」

「ええ、話し合いは終わりましたから。懐かしい顔を見ることができてよかったです。相手も納得して帰りました」

「そうか…よかったのかい?」

(…お父様、私じゃなくて旦那様に報連相していたのね)


 アードルフと私は、婚約者でこそなかったけれど将来結婚するんだろうなと自他共に思っていた。幼馴染み以上恋人未満なじれったい関係。

 そんな元恋人みたいな相手と現侯爵夫人の私が二人っきりで会って話すなんて、本来ならあり得ない。お父様だって流石にやらないと思っていた。


 でも夫の侯爵様がよしとしたから、このお茶会は成立した。


(旦那様も気にしていたから。若い私と結婚すること)


 旦那様は、カスペル様は真面な人だ。

 娘より年下の私と婚姻する戸惑いはあったが、侯爵として後継を育てるために私を侯爵家に留めるのに、婚姻の方が手っ取り早いとお父様の早計を受け入れてくれた。だけど私に慕う相手が居るのなら、無理強いすべきではないと考えた。


 恋はいつだって、思惑の外で織りなされる。

 もし私がアードルフ恋しさに行動したら、カスペル様亡き後侯爵家がどうなるか…。

 なんて政略的なことだけじゃなくて、純粋に若い子の恋路を気にしてくれただけなんだろうけど。


 私は一人遊びを続けるかわいいクラーラを確認して、車椅子の隣にしゃがみ込んでカスペル様の骨と皮だけになった手を取った。

 ひんやりして冷たい手を両手で暖めるように包む。


「旦那様。私は貴方の妻です」


 皆私を犠牲だと言うけれど。

 私は自分を犠牲だと思っていない。


「彼は私にとって青春。まばゆい日々の象徴です。きっと彼と一緒になったら騒がしくて充実した日々を送れると思います…でも私は、新しく得た家族を捨ててそんなまばゆい日々を過ごせるとは思えません」


 半年過ごした結婚生活、私は前世も含め、とても穏やかに過ごさせて貰った。

 祖父みたいな夫は優しいし、娘みたいなひ孫はかわいい。公爵夫人として家政はあるが、全体を確認して指示を出すだけで自分が動くわけじゃない。前世で疲れた身体を引きずって掃除洗濯を熟していた頃が夢のようだ。

 今世はしたことがないけれど、前世では家事を熟していた。だから使用人達が不便に感じる点もなんとなくわかって改善案を提示したところ、若奥様は使用人達をよく見てくださっていると家庭での評判が上がった。苦労を分かち合うと相手も親身に接してくれる。私は子爵出身だけど、侯爵家の夫人として相応しくないと使用人達から誹られることもない。


 なんだこれ。すごく幸せな結婚生活だ。


 勿論まったく問題がないわけじゃない。

 夫が逝去したら激動の時間が訪れるだろう。成長したクラーラが血の繋がらない祖母を受け入れてくれるかもわからない。いずれ社交を熟さねばならなくなったとき、私の隣に旦那様はいない。絶対将来的に苦労する。


 でもそれは、アードルフと結婚しても同じこと。

 彼と結婚して、絶対苦労をしないなんて、そんな保証どこにも無い。


 なにより私は、この時間を幸せだと思っている。

 夫と言うより祖父だし、ひ孫と言うより娘のような二人。夫として愛せなくても、ひ孫として見られなくても、家族であることに変わりはない。

 18歳の若い精神だけならどうなっていたかわからないが、今の私には42年過ごした情報がある。

 妙に達観した精神と築き上げられた責任感から、彼らを捨てて楽な道には走れない。


「…そうか」

「はい」

「もう引き返せないよ?」

「半年前ならまだしも、今更言われましても。私の覚悟はとうに決まっていますよ」


 アードルフは相変わらず泣きそうな顔だったけれど、私が新しい家族を切り捨てて自分と一緒に居る未来も上手く描けなかったようだ。

 そうして欲しいと言いながら、実際そうなった結果、恙なく過ごせるかと言われたらそうではない。

 彼も彼で優しいので、きっと侯爵家に対して後ろめたくなってしまう。

 きっぱり私の気持ちを伝えたから、私への未練は彼自身に精算して貰うしかない。


「それなら改めて…よろしく頼むよ、奥さん」

「ええ、お任せください旦那様」


 私とカスペル様は、男女の艶やかな関係ではない。

 共犯者のような視線を交わし、力強く頷いた。

 嫁入りした侯爵家のため。幼いクラーラのため。私の手を握り返す旦那様は、ご老人とは思えない力強さだった。

 私達が手を握り合っているのを見たクラーラが、ぬいぐるみを抱えてベンチを降りる。そのまま私の膝にくっついて、ふくふくほっぺたを擦り付けた。

 仲間外れにされたと思ったのかしら。ちょっと拗ねている顔がかわいい。

 かわいいこの子が将来苦労しないように、将来をよく考えなくちゃ。


 あの日、前世の記憶が戻ったのを遅かったと思ったけれど…きっとあのタイミングでよかったのね。

 思い出していなかったら、お父様に反発してアードルフのところに駆け込んだかもしれない。今回だって青春のときめきに任せてアードルフの手をとったかもしれない。若さから、周囲を顧みられずに暴走してしまったかもしれない。

 それもありだろう。自分の幸せを願うこと、間違っていない。

 だけど後々、絶対後悔した。


(若い思考がなくてよかったと思う日が来るなんて、思ってもみなかったわ)


 あの日、思い出せてよかった。

 膝にクラーラを、手の平に旦那様の温もりを感じながら、私は穏やかな気持ちで微笑んだ。




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