堕天虫

田辺すみ

堕天虫

 青い炎が舞い乱れる。

 湿った黄土を踏みしめ、私は妖しく燃え上がるそれに近づいた。濁った眼球が恍惚として空を見詰める。キリエ、私はひざまずき、その炎にこうべを垂れた。


 キリエが我々の村へやってきたのは偶然であり必然であった。村外れの友人宅に、猟銃を持って押し入ったのだ。追われているので匿え、と言うのである。泥に塗れたスラクッスに小さなスーツケース一つ、元々はアメリカとメキシコ国境の辺りで運び屋をしていたらしいが、“商品”を横領して追われ、不幸なことにその追っ手も殺してしまったので、組織が血気を上げて探しているらしい。そこでアンデスの麓の、こんな辺鄙な村に転がりこんだと言う訳だ。

 怯えた友人は私に助けを求めた。もとよりこの村は、違法にコカを栽培して糊口を凌いでおり、外界から遮断されている。おとなう者は稀であるし、コカ・カルテルから派遣されてくる男たちは、我々を人間扱いせず、稔りを巻き上げてはした金を落としていくだけだ。私は村で僅かな、都市そとで生活した経験を持つ者であった。

 ナイフを握りしめる男の手は震えていた。興奮のためだけではない、恐らく中毒症状がある。私は男の立てこもる部屋のドアを開けた。畜生、入ってくるな、と悲壮な叫び声がして、私の肩越しをナイフが掠めたが、腕を掴んで押さえ込むのは容易にさえ思えた。男は逃亡生活のせいでひどく痩せて、身体の傷は膿み発熱しているようだった。

「蝶を捕る」

 命じられて手当をしてやると、男は細い喉で吐き捨てた。高山蝶を捕って売れば金になるという。そうだろうか、と私は疑問を呈した。高山蝶のなかでも高価なアグリアス種は捕獲が難しい。幼虫時はコカの葉を食べるので、この村でも人工育成を試みている者たちがいるが、成功しているとは言えまい。まず卵の採取に時間を取られる、熱帯雨林でなくコカ畑ではすぐ弱ってしまうし、何よりも羽の色が美しく出ないのだ。最も高貴なものは輝く紺碧に朱金の羽、そこへ墨を流したような紋様が入り、高く高く飛ぶ。アンデスの峰に群れ飛び交尾をする時が一番美しく、産卵のために降りてくる頃には色香も衰えてしまう。

「知っている」

 男は月の光を窓際に受けて言った。運んだことがある。標本は繊細なものだから、容易くは無かったが、その分こちらへの払いも良かった。俺らのボスも悪趣味なコレクターで、人間も蝶と同じようなもんだと思っているらしい。羽を毟ってしまえば、芋虫も同然だ。クスリ漬けにして、自ら火に飛び込むよう躾ける。

「お前もそうだったのか」

 膿みを拭ってやりながら、俺は男−キリエと名乗った、本名かは分からない−に尋ねたが、男は苛々と薄暗闇を睨みつけるだけだった。


 4000メートル越の高地へ連れていけ、と言う。そんな身体で何ができる、と私は断ったが、銃を突きつけられては仕方ない。狭く岩だらけの道を、村中なけなしの金でレンタルした四輪駆動で登れるところまで登り、それからは徒歩で蝶の群れを探すことになった。資材などは私が担ぐ。コカ栽培が始まる前から我々は、登山や研究にこの地を訪れる人々に雇われる山岳従者となることで外貨を得ていた。しかしそれも次第に廃れつつある。どちらも利益は薄いものの、アンデスを登る危険性に比べれば、コカの栽培は人道に反するだろうが安全なのだ。

 弱った身体に高山病は辛いはずだが、キリエの精神力はそれを補うようだった。落ち窪んだ眼孔が強い日差しに影を落とし、けれどもその奥は昏くぎらついている。今にも砕けそうな脚が乾いた黄土の道を一歩一歩踏みしめる。私はなるべく近くにいてその身体を支えた。

「あれは何だ」

 下草に紛れ、金雲母が散らかったように光を弾くものを、キリエは指差した。

「死体から体液を吸っているのだ」

 高山蝶は動物の体液や糞尿に群がる習性がある。半分腐敗の始まっているリャマの死体にコリアス種がまとわりつく。キリエは近づき覗きこんだが、何匹かが羽ばたいてキリエにしがみついてきた。ひっ、と潰れた悲鳴を呑んで後ずさった身体を、私は庇うように受け止める。

「彼らは人の汗も好物なのでな。捕るか」

「要らん、あれは二束三文だ。アグリアスだけ狙えばいい」

 私の手を振り解き、キリエは再び歩き出す。視線だけが、いつまでも腐臭漂う煌びやかな饗宴を見つめていた。


 乾季も終わりに近いためか、アグリアスは見つからない。私たちは車に戻り、明日は捕獲地を変えることにする。助手席にだらりと腰掛けて、キリエの埃に塗れた目元が、フロントガラスを通して溢れそうに輝く星空を映している。私はスープを作り差し出した。縦走登山などで何日も山に滞在する場合、食事を用意するのも山岳従者の役割である。キリエはこちらを見て一瞬すがるような視線をしたが、背を返してしまった。

「食わないと体力が保たない」

「もう寝る」

 嘘をつけ、毎夜のようにうなされているのを、私が気づいていないとでも思っているのだろうか。私は運転席から乗り出し、キリエの強張った肩を抱きかかえるようにしてこちらを向かせた。薄い胸が汚れたシャツの下で、喘ぐように震えた。

「離せ、サイリ、殺されたいか」

「何の武器も手元にないだろう。ゆっくり食え。それともコカをやろうか」

 節くれだった掌が私の頬をった。半病人の力など痛痒も無いが、キリエの目が泣いているように濡れて見えたので、私は拘束を解いた。

「あんなことは、もう嫌だ。俺は本物の蝶が見たい」

 暗闇のなか、懺悔するようにキリエは嗚咽する。俺は親無しのチンピラで、組織に拾われて生きながらえた。身体を売って、クスリをって、国境を跨いで違法商品を届ける。高山蝶の標本を目にした時、俺は初めてこんなに綺麗なものがこの世界にあるのだと知った。そして自分が酷く惨めに思えた。これが飛んでいるところを見たい。自由に太陽の下はばたく、至上の美しさを見てみたい。私はキリエにスープの椀を渡し、ストールをかけてやる。愚かな男だ、そんなことのために生命の危険を犯して逃げてきたというのだろうか。かつてこの土地まで支配下としていた伝説の帝国では、繁栄を祈り神に生贄を捧げていた。コカとチチャ(トウモロコシ酒)は皇帝より賜う慈悲である。生贄たちは酩酊状態で屠られた。私たちはみな同じだ、貧困と暴力と快楽に屈して罪を犯してまで、この地にしがみつくのなら。


 その日私たちは岩肌の斜面を登っていたが、風が出てきたことに私は注意を逸らした。山の天気は変わりやすい。足場が悪いところで風雨になると危険だ。先にいくキリエに、一旦高原に戻ろう、と声をかけようとした時だった。

「見つけた」

 雲の合間降り注ぐ日の光のなか、群舞するアグリアス。どんな海原よりも輝かしい碧い上羽、埋め火の如く艶熱を孕んだ下羽、祝詞のりとを筆したような紋様、銀の産毛を靡かせる触覚。どの一羽とて、同じ色合いのものは無い。中空に神々しく戯れるそれを追って、キリエの背が駆け出した。

「駄目だ、キリエ、いくな!」

 もう軽くなってしまった身体は、信じられないような速さで岩場を疾走する。私は背負い荷物を置き、這いつくばるように従った。男のくらんだ目には、蝶しか見えなくなっているのだろう。いや、神が男を生贄として見初めたのかもしれない。あと一歩で引き留められる、というところで、キリエは足を踏み外し、傾斜の底へと転げ堕ちていった。


 予想よりも暴風は長く続き、私は引き取った荷物と岩陰に隠れて、そこで一昼夜過ごさねばならなかった。だが私は飢えも渇きも恐怖も感じなかった。凄まじい力量で吹きつける風も雨も轟音を伴う雷鳴も、私の心に響かなかった。蝶。それだけが私の魂に焼き付いていた。そして、蝶に囚われた男。愚かしく憐れに穢れたキリエ。渓谷へ降りていけば、低木が風に薙ぎ倒され、岩に埋められて、荒々しい有様であった。私は村のことを忘れて何日も通った。そしてその日も、黄昏に帰還を急かされる時間帯になった。


 岩陰に青い炎が舞い乱れる。ありとあらゆる種類の高山蝶が群がっていた。

 脂っぽく湿った黄土を踏みしめ、私は妖しく燃え上がるそれに近づく。濁った眼球が恍惚として空を見詰めている。キリエ、私はひざまずき、その炎にこうべを垂れた。芋虫のように溶けた肌に散る血痕を、蝶たちに交じって舐め啜った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

堕天虫 田辺すみ @stanabe

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ