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「あの、天青さま……」
「なんだ」
お邪魔でしょうから、とそそくさと部屋を出て行ってしまった藍と紺を呼び止める間もなく天青は玉藻の手を引くと自分の膝の上に座らせた。
養父母にさえこのようなことはされたことがない。戸惑いながら、ちらと天青を振り返ると満足げな表情を浮かべている。
「は、恥ずかしい……のです、が」
「何故?」
「こ、このように身体を密着させるのは……その、胸がひどく高鳴ってしまって」
口から飛び出てしまうのではないのかと思うほど、心臓が暴れ狂っている。そのくせ背中越しに伝わる天青の鼓動はひどく緩やかで、落ち着きがないのは玉藻ばかりのようだった。
「愛らしいな、玉藻は」
「あ、ああっ、愛らしい……⁉」
突然の「愛らしい」発言にいっそう玉藻の胸は激しく打ち鳴らされた。もしや藍と紺による「もっと褒めろ」の文句を受けてのおべっかなのかもしれない。
心にもない、とは言わないがいささか誇張しているのは間違いない。そうに決まっている。だって、天青さまがこんな――……。
このままでは呼吸さえもままならなくなって、倒れてしまいそうだ。
一方で、真っ白な肌を赤く染めた妻を見て、天青は笑みを深くしていたことに玉藻は気付かなかった。
朝の空気が染みわたる紅の宮は静寂が満ちていた。
開け放たれた硝子戸からは庭からの穏やかな風が吹き込み、咲きほころんだ梅花の甘い香りがふわりと漂ってくる。天青が言うにはこれらはすべて幻なのだという。
梅の花も、この風も天青が妖人としての権能で創り出した偽物に過ぎないのだ、と。
それでも、現世に或る何もかもよりもこの宮で咲く梅の方が美しいと思うし、水天越しの太陽の方が玉藻は好きだった。
「――――」
ふつりと途切れたまま、ただじっと静かな風景にふたりで視線を向けている。
けれど会話がないことを忘れてしまうほどに居心地がよかった。落ち着かないと思っていたのが嘘のように、天青の膝の上が昔からの定位置だったような気さえしてくる。
だから「玉藻」と天青に呼ばれたときも、ふにゃりと力が抜けたままの状態だった。
「おまえに話しておきたいことがある」
「話しておきたいこと……ですか?」
かすかに迷いがある口調に首を傾げ、玉藻は天青の金の眸を見つめた。
神秘的な輝きを放つ眼は美しく、息を呑んでしまいそうになるほどだ。
妖人は皆、麗人ぞろいだがやはり天青が玉藻には最も美しく高貴で侵しがたい存在に思えるのだった。
「おまえは幼いころ――水津ヶ淵に流れ着いたのだ、と言っていたな」
自らが素性のわからない者であることを天青には話していた。
【風花の里】の誰もが知るその事実を馬鹿にすることも、形ばかりの同情を示すこともなく聴いてくれたのは天青が初めてだった。義父母さえも、おまえは可哀想な子だ、が口ぐせだった。
「自分が何者か、知りたいか」
「それは……」
数拍の間の後に、玉藻は頭を振った。
わからないのです、と消え入るような声音で続ける。
「知ってしまえば、もう元の――知らなかった頃の自分には戻れませんから。たとえ大罪人であったとしたら……天青さまに迷惑をかけるような存在であったとしたら、私は私を許すことは出来ないでしょう」
「私はおまえが何者だろうと構わない」
「天青さま……?」
優しく頬に触れた指先が震えていることに気付いた。天青でも緊張することがあるのかと思うと少し不思議な気持ちにもなる。
「私はおまえのことを……」
言いかけてすぐに言葉を切り、視線を庭に向けた。
ちちち、と小鳥の囀りが響いている。天青の領域内には蛟の眷属以外は基本立ち入ることはない。約束のない訪問を許しているのは心を許した友――紫水ぐらいである。
ゆえに鮮やかな橙の「鳥」などが庭木の枝に止まっているなんてことは本来、有り得ないのだ。
「失礼します。天青さま、玉藻さま」
がらりと障子を開けて涼音が室内に足を踏み入れた。
「客人がお越しです」
「――そのようだな」
大きく翼を広げた小鳥を眺めながら、玉藻を庇うように天青は腕に抱いた。
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