42
妙に温かくふかふかとした赤黒い空間の中で、玉藻は目を醒ました。
玉藻の身体には何かから防護するかのように円形の薄い膜に包み込まれている。ひだになったような器官が視界の端に見えた。
そうだった、自分は天青に呑み込まれたのだ。
その重大な事実に思い至ると玉藻はほうと息を吐いた。ということはこの場所は天青の腹の中なのだろう。
いっそこのまま彼の身体の一部になれるのであれば本望――そう思っていたのだが「玉藻」と己を呼ぶ夫の声が響いた。
『すまない、玉藻――苦しいか』
「いいえ」
頭を振ると「そうか」と戸惑うような天青の声が頭上から響いて来る。
『すぐに出してやりたいが、もうしばらくこの中にいてくれ』
「わかりました」
あまりに玉藻が物分かりがよいので、微かにたじろぐような間があった。
『……いちおう、おまえが私自身であると認識するように術をかけてある。膜につつまれているだろう――その中にいれば玉藻を私の身体が攻撃することはない』
淡々と言葉を交わし、会話はふつりと途切れてしまう。
思いの外ふかふかとしたこの赤い褥に横になってしまえば、このまま眠ることだって出来そうだ。それくらい玉藻には緊張感がなかった。
天青がそう言うのなら「大丈夫」なのだし、もし「大丈夫でなかった」のだとしても構わない。そう思うくらいには天青を信頼している。
いまだって長い沈黙さえも心地好く感じてしまうのだ。なによりも久々に天青と話せたことが嬉しく感じている自分がいる。膝をついて背筋を伸ばして正座しているとぼそりと呟くような声が降って来た。
『……怖かっただろう』
「怖い、ですか。ええ、まあ……私も、幸久さまに捕らえられるとは予想していなくて」
次第に自分が自分でなくなっていくような感覚が怖かった。
おそらく薬か何かを盛られていたのだろうとは思うが、紅の宮のことも、天青のことも――自分のことさえもわからなくなる瞬間が確かにあった。言われるがままされるがままになり、自我が失われていく感覚。
もし、天青のもとに戻れなかったら。そんなふうに想像するとぞっと背筋が寒くなった。
「ああ、これが『怖い』ということなのでしょうか……」
『すまない、もっと早く助けられれば――』
切なげな声音を聞いていると玉藻の胸は苦しくなる。勢いよく「いいえ」と叫んで天青の言葉を遮った。
「天青さまが夢渡りで私のもとへ来てくださったでしょう? そのおかげで私は救われましたから。天青さまのことを考えていれば、怖くなかったのです」
『玉藻……』
苦しそうな声で天青は息を吐いたのが分かった。
『早くおまえをこの手に抱きたい』
「……ふふ」
いつになく、途方に暮れたような弱りきった声音で天青が言ったので思わず笑みがこぼれた。
ぐん、と天青の身体が深くに潜航したのが感じられた。
抵抗するように耳の奥がきいんと痺れる。
境界を越えようとしているのだ、とはなんとはなしに感じた。かつて淵に飛び込んだときにも似たような感覚を経験したような気がする。気を失ってはいたが――深い水底から、別の領域へと
自分の中の何かが生まれ変わるような気がした。
ぐんぐん水流を掻き分け渦の中に飛び込んで、身体がちぎれそうになるほどの圧がかかって。だけど次の瞬間には、身体のすべてが書き換えられてぴかぴかの新しい自分になったような心地になった。
いまとおなじように。
「あ……」
身体を守っていた赤い膜が、ずるりと天青の内壁をすり抜けるようにして玉藻ごと外に排出した。ふわりふわりと風に浮かぶ蒲公英の綿毛のように揺らめきながら宙を舞い、地面まで玉藻を送り届けるとぱちりとはじけて消えた。
地響きが轟き、咆哮が響き渡る。
振り返れば青銀の鱗に赤き血を滴らせた蛟の姿があった。
「天青さま!」
駆け寄ると巨大な影がしゅるしゅると萎んで、ひとのかたちを取った。
白い衣は紅く染まり、がくりと膝をついた天青を玉藻は支えた。
「――案ずるな、問題ない」
「ああっ、天青さま! 玉藻さまもっ」
「よかったぁ、おふたりとも無事みたい!」
たたたた、と跳ねるような軽い足音が背後から聞こえてきた。振り返れば紅の宮の社殿から小さな影がふたつそろって駆けてくる。その後ろには涼音の姿があった。
「「おかえりなさいませ!」」
「よくご無事で戻られました、天青さま。玉藻さま」
むぎゅっと抱き着いてきた藍と紺の頭を撫で、いつになく穏やかで柔らかな眼差しを向けた涼音に、玉藻は微笑みかけた。
帰って来たのだ、という実感が胸にじわりと湧いてくる。
いままで訪れたこともない不思議な場所で、ほんのわずかな時間しかこの宮で過ごしてはいないのに……天青や、みんなと過ごした時間が特別で大切なものだと感じられる。
「ただいま、戻りました」
此処が、天青がいるこの紅の宮こそが自分が帰る場所なのだ。
そう思い始めていることを玉藻自身気づいていた。
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