32
次第に背後からの物音が何も聞こえなくなった。それに慄きながら、玉藻はわずかに差し込む光の方へと這っていく。
石段の影に隠れた小さな横穴から這い出てみると、眼前にはゆらりと水をたたえた深い淵があった。
振り返るとそこには水津ヶ淵でいつも手を合わせていた小さな社があった。
水津ヶ淵周辺は里の人間は滅多に訪れないから、元花嫁たちは此処から隙を見て家に戻るなりどこかへ逃げるなりしたのだろう。
ハッと気づくと己が這い出てきた穴がみるみるうちにふさがるのが見えた。
待って、と手を伸ばしても指先が触れたのは灰色のつめたい石材だけだった。思わず、へなへなと力が抜けて座り込んでしまう。
もう、紅の宮にはこの抜け道を通っては戻れない。
一方通行だとは誰も教えてはくれなかったが、花嫁たちはあの場所から逃げ出すために通路を使うのだからもとに戻れなくても一向に構わなかっただろう。
玉藻とは違う。
いつか天青が迎えに来てくれるのだろうか。
それとも――また崖上から淵に飛び込めば。
考えているあいだに眩暈がしてきた。
よろよろと立ち上がって淵の水面を覗き込む。陽が沈む前だからまだ、自分の顔がよく見えた。髪はほつれ、くしゃりと萎れた表情の娘がそこにいる。
黄金色の髪にきらりと光る簪が、疲れ切った玉藻にはひどく不釣り合いだった。
たとえば。このまま、誰にも知られることなく元住んでいた家に戻ることが出来るだろうか……否、無理だろう。
この淵は里の最奥にあり、人家の前を通らずに里の外れにある玉藻の家まではたどり着けない。
どうすることも出来ない、そう悟ってぼんやりと座り込んでいたときだった。
「――玉藻?」
なつかしい声が聞こえた。
振り返ってはならない。
そう思うのに「本当に玉藻なのか?」と問いかけるその声に、勝手に首が軋んで振り向いていた。
「……幸久さま?」
ようやく発することができたのは、想像していたよりもずっと掠れた声だった。
「やっぱり、玉藻だったのか! よくぞ無事で……いままでどこにいたんだ」
駆け寄って来た男が座り込むと玉藻の手を掴んだ。
「あの……」
「戻って来たんだな! よかった……じつは父上に、花嫁になった娘たちの中で生きて里に戻ってきた例がいくつかあると聞いていたんだ。そうか玉藻も帰ってこられたのか……」
幸久は涙を滲ませながら矢継ぎ早にどうしていたんだ、どこにいたんだ、具合が悪くないかなどと質問を投げかける。なにも言えず、ただどうしてと思った。どうして幸久が此処にいるのだろう。
『幸久、さま』
どん、と勢いよく背中を押した衝撃を思い出す。婚礼衣装に身を包み、切り立った崖から真っ逆さまに落ちていったときの感覚も。
「わたし、は……」
震える玉藻が言葉を紡ぐのを待たず、幸久は背中に手を回して搔き抱いていた。
妹のように思っていた玉藻と再会できて感極まっているのだろう――突き落としたくせに――戸惑いながらもその抱擁に応えたが――やめて――腕の力が強くなったことに気付いた――嫌。
「……幸久さま、痛い、です」
いくら訴えても、幸久は聞く耳を持たなかった。
「ほんとうに玉藻が帰ってきてくれて俺は嬉しいよ。おまえのことをずっと考えていたんだ」
「幸久さま、離してください」
「どうして俺はもっとおまえを庇ってやらなかったのか、と」
そのとき、幸久の声の調子ががくりと一段階落ちた。
「逃がす手はずを整えてやればよかったのに、とずっと考え続けていたんだ。ずっとずっとずっとずっと……!」
ぎりぎりと太い腕が玉藻の背に食い込んだ。
息が苦しい。
万力のように締め付けられる痛みと苦しさで目に涙が滲む。
「嗚呼――玉藻も喜んでくれるんだね。よかった、また会える日が来るなんて、こんな嬉しいことはないよ!」
「あ……か、は」
ぱっといきなり腕の力が緩んで咳き込むと「可哀想に」と幸久は憐れむような声で言った。
玉藻は身体が弱いからね、と。
「そうだ、うちで休んでいくといい。大丈夫、もう父上はうるさいことは言わないよ。ただ、おまえの髪は少し目立つからね……さあ、この布を被りなさい」
「幸久、さま……?」
「大丈夫、何もかもうまく行く。だからおまえは何も考えなくていいんだ」
覗き込んできた幸久の双眸は深い闇色に染まっていた。
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