13
けぶるような甘い香りが室内に立ち込めている。
夜半過ぎてこれから眠るだけだというのに着飾る必要などない、そう思っていたのだがこれは死に装束なのだと思えば納得した。
最期のときぐらい艶やかに美しく、そう思ってくれたのかもしれないと玉藻は思った。事前に女童たちに言われたことを反芻する。お渡りになられる時、お部屋の前に天青さまが立たれたときは――ぎ、と廊下を軋ませてなにものかが近づいて来る気配がした。
来た。
ふしぎと心は凪いだまま、玉藻は目を閉じる。天青さまがよい、と言われるまでそのまま目を開けてはいけませんよ――穏やかな藍の言葉に、ただ静かに頷く。
ぎ、ぎ、と廊下の板が軋む音が資格を封じたことによりいっそうはっきりと聞こえるようになった気がする。重量を感じさせるその動きに玉藻はほんのわずかしかない好奇心がくすぐられた。いま、天青さまはどのようなお姿をしているのだろうか。
いままで目にしたことのある人間に似た妖人の姿なのか、それとも――ず、と巨大ななにかが這うような音が近づいて来る。否、これは長い裾を引きずっているだけなのだ、と打ち消すが頭の中はひとたび想像した大蛇にみっしりと占拠されている。
そしてその大きな口がぱっくりと開いて、玉藻を――。
「目を開けよ」
はっとしたときにはその玲瓏な声が室内に響き渡っていた。
青褐の着物に袴を合わせた姿の白銀の髪の青年が、広縁に差し込む水上の揺らめく月を背に立っている。
「……あ」
月色の眸が自身に向けられていることにどくりと心臓が跳ねた。手がじわりと汗ばんでくる。まるで己が蛙にでもなった気がした。あの口が、巨大な蛇の口となり玉藻をひと呑みにする瞬間を夢想していたことなどすっかり忘れてしまった。
喜びも悲哀も怒りもなにひとつ浮かばない無感動なその表情こそが、彼を神々しくひとならざるモノとして見せていた。
彼と比べれば自分など――異形だ何だと言われ続けては来たものの、美しい蛟の姿を見ただけでこんなにも動揺してしまっている。ひそかに己を恥じていた玉藻に天青は怪訝そうな目を向けた。
「お食事を」
そう言って涼音が運んで来たのはいつも目にするよりも華やかな膳だった。本膳、二の膳、三の膳、硯蓋と用意されておりどれも見たことがないような馳走ばかりが並んでいる。玉藻は目を白黒させた。
「恐れながら、天青さま……」
「なんだ」
見慣れない白い花が添えらえた椀ものを手に取った天青が玉藻をぎろりと睨んだ――ように見えただけで他意はないのかもしれない。
「あの、今日こそは私を食べていただけるのかと、思って、いたのですが……」
「は?」
どうやら違うらしい、ということに食事が運ばれて来て気付いた。二人分の膳を前に玉藻はひとり途方に暮れていたのだった。
「……召し上がる前に、すこしは私に肉をつけろ、と。つまりはそういうことでしょうか」
「ぶっ……! な、貴様何を言っているんだ⁉」
噴き出しそうになった汁をなんとか呑み込んだらしい天青が袖で口元を覆いながらくぐもった声で言った。
「いいのです、はっきり仰っていただければ。ご覧の通り、私はやせぎすで……骨と皮ばかりで食べ出がありませんよね」
玉藻は同年代の娘と比べれば一目瞭然の肉の薄さだ。いままで供されてきた贄用の娘たちとも格段に体形が異なっていることだろう。女らしい丸みもない平たい身体のことを玉藻はいまさら恥じた。
「しっかりとこのお食事で肉を付けます、美味しく召し上がっていただけるように」
はあ、と気だるげに息を吐いた天青が「いいから早く食え」と促してくる。涼音が用意する料理はどれも美味しい。食べたこともなければ見たことのないものも多い。異国風の品だというものも時々混じっていた。
なかでも硯蓋に用意されていたポッディングという黄色の菓子は、こないだ食べた餡蜜とも違う濃厚な卵の甘みと旨味が、ぷるぷるの餅のようなものにぎっしりときめ細やかに詰まった一品だった。ひとくちで「んぅ!」とはしたなくも歓喜の悲鳴があげてしまったほどだ。
「……気に入ったのか?」
「ええ、とても」
「涼音。これからポッディングを毎日こいつに与えろ」
「かしこまりました」
「え、いいえっ、そんな勿体ない……! きっと作るのが面倒だったり高価なものだったりするのでしょう?」
「はあ……これをたくさん食べて肉を付けろ」
肉がつく、と言われれば引き下がるほかない。
この日以来、好物と認定されて藍や紺にもおやつのたびに「玉藻さまのお好きなポッディングですよ!」とからかわれたのだった。
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