12
藍がいつになくていねいに玉藻の髪を梳くものだから妙だな、とは思っていた。かすかに手が震えているようにも見える。
「どうかしたの、藍」
「びゃっ、ちがうの、違うのです。すこし緊張しているだけですのでっ」
日ごろから手入れはしっかりとせねば、と張り切って世話を焼いてくれるのはいつものことなのだが、これほどまでに怯えている――否、本人の申告どおり緊張している姿は滅多にないことだった。
足を揉んでいた紺がおどけたように「藍は初心だから」とわけ知り顔で頷いた。
「もみもみ~♪ 玉藻さま、痛いところないですかぁ? 疲れも凝りもいまのうちにほぐしておかないとね」
「なによぉ、紺だってそんな経験なんてないくせに!」
んべえ、と舌を出した紺にむきになって藍が言い返す。
無邪気で自由奔放な紺相手でも、いつも落ち着いて冷静に対応している藍にしてはめずらしい。不思議に思っていると、こほん、と可愛らしくもわざとらしい咳払いをした。
「玉藻さま、本日の御召しものはどうぞこちらを」
すっと差し出されたのは、日ごろ着せてもらっている普段着――といっても玉藻にとってはいままで一度も着たことがないような上等な着物である――ではなかった。
可愛らしい女童たちの手によって用意されていたのは艶やかな紅の打掛で、ぱっと開かれた扇、そして愛らしい桜花がほころぶさまが金銀の糸で描かれている。
それを羽織るように言われて戸惑ってしまった。
普段以上に豪華な服装でどこに出掛けるというのか。
すると玉藻の考えを読んだかのように紺がくすくすと笑った。
「違うよ、今日は玉藻さまがお出かけするんじゃないの――ご訪問をお受けするんだよ?」
「ご訪問……?」
困惑しきった表情でふたりを見上げると、声をそろえて疑問に答えてくれた。
「「もちろん、天青さまのお渡り、だよ―です―!」」
お渡り、という言葉の意味をしばらく考えて――ようやく理解した。とうとう天青は玉藻を花嫁として扱ってくれるつもりらしい。
つまりは今日こそ、玉藻は天青に喰らわれるのだ。
ずっと前から覚悟していたことなので恐怖はない、それどころか。
「まあ……! いよいよなんですね」
嬉しい、とすら感じてしまう。あの美しいひとの一部となる、そう思うと胸がどくんと熱く震えるのだ。
頬を染めた玉藻を前に女童たちがきゃあきゃあ騒ぎ立てる。
「そうそう、いよいよなのっ! ついにとも言う……天青さまってば意外と奥手っていうか」
「いいのよ。まじめなのが天青さまのとりえだもの、仕方ないわ」
紺がうんうん、と頷きながら言って、藍が腕組みしながら相槌を打った。
玉藻はそんなふたりを気にかけている余裕など玉藻にはとうになく、高鳴る胸を抑えられなかった。ついに、このときがやってきたのだ。
あの方に食べられることで。
自分が生きてきた「意味」が生まれるのだ――そう思うと嬉しくてたまらなかった。
『……あ、』
ただ、いまも玉藻の気持ちをずしりと重くするのは、どん、と淵に向かって背中を押されたときのあの手の感覚だった。
そして落ちていく刹那に見た絶望の底にいるかのような幸久の表情。
幸久には玉藻を「そう」する役目が与えられていたのだろう、とは推測できる。
花嫁はすすんで贄になどなりたがるはずがない。
また、あまりの高さに恐怖をおぼえていつまで経っても飛び込まない者もいる――だからこそ、水津ヶ淵へ突き落とすための「役」が必要だった。
でも、だけど……玉藻は、恨んでなどいないのに。
どうしてそんな申し訳なさそうな顔を、泣きそうな顔をしていたのだろう。施しをしていた娘の命を奪うことへのうしろめたさだろうか。
「……なの! ねえ、玉藻さま?」
それはまるで家畜を屠るときのような――そのようなことを考えていたせいで、反応が遅れた。
「ごめんなさい。なんだった?」
「もうっ、ちゃんと聞いてくれなきゃ嫌っ!」
むうと頬を膨らませた紺を宥めなていると、藍が代わりにもう一度話してくれた。
「夜半過ぎに天青さまが訪れます――天青さまが『許す』というまで何もおっしゃらないように。目も開けてはなりませんよ」
「わかりました、だけど目も閉じておくのね……」
少し不思議に思いはしたが、玉藻は頷いたのだった。
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