05
【風花の里】には掟があった。
水津ヶ淵には近づかない――そこには里の守り神である蛟様の棲み処だから。
里の子供なら知っていて当然のことを、玉藻は教えられずに育った。
誰も寄り付かないその場所こそが幼い玉藻が流れ着いた場所であり、唯一心穏やかに過ごせる場所であったからだ。
義父母も玉藻がしばしば淵を訪れていることを知ってはいたが、叱りつけるようなことはなかった。嬉しそうに水辺の風景を語る玉藻に「おまえは淵からやってきた奇跡の子だからね」と優しく微笑んだのだった。
里長が告げたそのほかの「掟」についても、玉藻は知らずに育った。
蛟様というのは水津ヶ淵に棲む蛇の神様なのだそうだ。
そういえば白木で出来た小さなお社が淵に向かって建立されているのを見たことがある。
遊びに行くたびにそこの水を変えたりお花を供えたりするのは玉藻だった。何故なら誰もが顧みず放っておかれているのが明らかだったからだった。だから正直、里長が掟だ何だといって持ち出してきたのを、玉藻は意外に思ってはいた。彼らに淵に棲むものを信仰する気持ちなどあったのか、と。
「玉藻――いるかい⁉」
血相を変えて幸久が訪ねてきたのは、里長たちが帰って半日ほどした頃だった。いつになく慌てているように見える彼を呆気に取られて見つめていると、いきなり幸久は玉藻の肩を掴んだ。
「早く里から逃げなさい」
「えっ……?」
幸久は冗談を言っているようには見えなかった――明らかに本気だというのがわかる真剣なまなざしが玉藻を捉えた。
「父さんたちから聞いたんだろう。玉藻を、蛟様の生贄に差し出すつもりだという……あの人たちは去年から続く酷い不作に何か理由をつけなくてはならないんだ。だから里の守り神が怒っている、淵神様の祟りだ、と適当な言い訳をでっちあげて里のひとたちの不平不満をよそに逃がそうとしているに過ぎない!」
早口で言った幸久の声音には怒りが滲んでいた。
里長たちの考えにひどく憤っているらしい。
玉藻にはその理由がわからなかった――彼の父親がそうしたいと望んでいるのに何故、それほどまでに憤慨しているのだろう。
「幸久さま、あの」
「大丈夫、少しだけれど路銀なら持たせてあげられる。きみの髪色は少し目立つから頭巾でも被った方がいいけれど、すぐに里を出れば追手に先んじることが出来るはず……」
「幸久!」
戸口に立っていたのは、組頭だった。
つかつかと息子のもとに歩み寄ると、その頬をばしりと強く張った。乾いた音がろくに物がない玉藻の家によく響いた。
「何を考えているんだお前は! こんな不気味な女に誑かされおって」
「父さんこそ生贄なんて古い考えは捨ててしまえ! 自分たちが里人たちの不満を背負いきれないからはけ口を作ろうとしているだけだろうが! 里長のところには備蓄された米も野菜もたくさんあるのに、手を差し伸べようとしない……」
言い争う親子の声に玉藻は耳を塞ぎたくなった。
自分が原因で彼らが言い争っている。いまとなっては幸久だけが玉藻に親切にしてくれる唯一のひとだった。その彼が傷つくのは見たくない。
そのとき、組頭の後ろから数人の男がぬっと家の中に上がり込んで来た。玉藻の両腕を掴むと外に引きずり出す。「玉藻!」と幸久が叫ぶ声が土間から響いていた。
「おい化物」
にやにやしながら見覚えのある男が玉藻を見下ろしてきた。日ごろ、玉藻が通るたびに野次を飛ばしてくる青年だった。
「おまえ、淵に落ちて――蛟様に捧げられてくたばるんだってな。せいせいするよ、もう不気味な面を見なくてすむと思うとよぉ」
「あ……」
死ぬ、という言葉がようやく玉藻の中に落ちてきた。
そうだ、私は死ぬのだ。だから心優しい幸久は玉藻を憐れんで【風花の里】から逃げるように促したのだろう。後ろ手に縛られ、罪人のように引き立てられながら玉藻は考えていた。
蛟様の花嫁になる、ということが意味するのはまっとうな婚礼などでは当然なく――里が玉藻という供物を捧げ、怒りを鎮めてもらうために必要な「儀式」なのだ。
自分にはもう……言われたことにただ従うことしかできないけれど、自分がいかに物を知らず、理解をしようともしていなかったかを思い知った。
そのあとは里長の家の座敷に閉じ込められ、死なない程度に世話を焼かれた。
あの襤褸屋でひとり暮らしていたときと比べれば随分な贅沢だろう、感謝しろと里長からは言われた。まったくその通りだったので「ありがたいことでございます」と深々と玉藻は頭を下げた。
すると何故か機嫌を損ねたらしく用意された膳をひっくり返して里長は座敷を出て行った。
始終監視をつけられ、座敷を出ることは叶わない。息苦しい生活ではあったが食事も与えられ、身体を清めることも出来る。
期限付きではあったが願ってもない生活ではあった。
「惨めなものね」
里長の娘である紗代子が座敷を訪ねてきて玉藻をあざ笑った。
「あんたはもう死ぬの。だから幸久様もずうっと私のモノ――そもそもあの方はあんたの境遇を憐れんでいただけだもの。愛情なんてないわ」
「ええ、紗代子さまのおっしゃるとおりです」
なんのためらいもなく頷くと、気分を害したとばかりに眉を顰め、ばたんと勢いよく座敷の戸を閉めて出て行ってしまった。ほっそりとした身体つきは母親譲りだが、その荒々しい気性は父親とよく似ていた。
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