第二章 異形の花嫁

07

 ぶくぶくと泡が開いた唇から漏れていた。


 水を擦って重たくなり肌に張り付いた着物がまるで玉藻を縛る縄のように巻き付いて、水底へと身体が沈んでいく。ただ高所から落ちたというのに、痛みをおぼえなかった。柔らかく紅い水面に呑み込まれた――そんな感触に近かった。


 当然のように水の中では呼吸は出来ない。ろくに泳いだ記憶などないがいくら玉藻が世間知らずとはいえ理解していた。


 死ぬというのは、焦り藻掻き、ひどく苦しむものだと思っていたのに。

 不思議と心は凪いで穏やかな心地さえおぼえている。

 紅い水底へと沈んでいく最中に、玉藻はそっと意識を手放した。





 重い――。


 最初に感じたのはそれだった。そして寒い、とも。


 死後の世界があるのだとしたらなんとも不快な感覚を与えてくるものだ、とぼやけ霞んだ頭の中で玉藻は考えていた。


 うっすら瞼を持ち上げ、目を開いてみると見知らぬ場所に自分がいることに気付いた。


 何もかもが紅い、御殿のような場所だ……その玄関に当たる土間らしき場所で、玉藻は座り込んでいた。


 なんとなく、祭りなどを執り行う里の社殿が思い起こされたが、それのすくなくとも数十倍は立派に見える。ゆっくりと身体を起こして見上げれば、高い天井が見えた。


 振り返ればこれまた赤く、そして巨大な――朱塗りの門のようなものが見える。


「くしゅ……っ」


 ちいさなくしゃみをし、玉藻は震える両腕を掻き抱いた。

 水を吸った衣がぺちゃりと肌に張り付いている。どうやらこれが不快感の根本の原因のようだった。身に纏っているのは確かに花嫁衣装だが、水に濡れてすっかり色が変わり鼠色になってしまっている。


 ぶるぶる凍えていたとき、ふわ、と温かな風があたりに漂って来た。

 するとみるみるうちに玉藻が纏っていた衣服が、もう取り入れるばかりだった洗濯もののように乾いてしまう。


「あたたかい……」


 ほっと息を吐いたときだった。


「何者だ、娘」


 その声音を聞いた瞬間に、氷のように冷たい声音に心臓をぐいと掴まれたような心地がした。


 紅い神殿のような社の中、長い衣を引きずるように現れたのは白銀の髪の男だった。鋭く尖った眼差しは蹲る玉藻を捉えている。


 思わずひれ伏すようにして玉藻は顔を隠した。

 気味が悪いと言われ続けたこの容姿を少しでも見せないように。


「玉藻、と申します……」

「名など聞いてはおらぬ。私は貴様が何者か、と問うたのだ」


 何者か――それは玉藻にとって難題に近しいものだった。

 里の中では、化物だ異形だと言われていたが、はたしてそれは彼が求めている答えなのだろうか。

 さんざん迷った挙句「わかりません」と答えた。


「……なんだと?」

「私は七つの頃、水津ヶ淵に流れ着きました。それより前の記憶はございません。以降は、里の老夫婦に引き取ってもらい育ててもらいました。玉藻というのは彼らが与えてくれた名です。それ以外のものと言えば……」


 頭にただひとつ浮かんだ答えらしきものを、玉藻は唇で紡いだ。静かに。


「蛟様の花嫁いけにえです」

「……何?」


 目の前に立っているらしい男は、呆気にとられたような声を発した。

 何の役にも立たなかった自分に唯一与えられた役目――それが、花嫁だった。

 里長が豊作を祈るまじないを行って詞を詠みあげ、供物として水底に沈められた。それだけが玉藻がいままで生きていた価値であり、存在してきた意味だった。

 たっと軽い足音がして、男の気配がぐんと近づく。


「……またか――それにしても、このようなことがあっていいものか」


 ぼそりと呟かれた声に顔を上げると、すだれのように男の長い髪が玉藻の顔にかかった。


「貴様が、私の花嫁だと――?」


 黄金色の眸が玉藻を捉える。

 やはりそうか、と息を呑んだ。彼が、彼こそが淵神様――蛟様。里の守り神である、蛇の神様なのだと玉藻はようやく理解したのだった。


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