第一章 玉響の花嫁

01

「鬼子が来たぞ」


 ひそひそとざわめきが波のように集った人々の口の端に上る。

 玉藻は顔を背け前かがみになる。そうすると髪が前に来て、視界を覆ってみたくないものを見せないように隠してくれるのだ。


「黄金色の鬼が来たぞ。それ、鬼退治だ」


 ぎゃははは、と笑い声が峡谷に響き渡る。秋の【風花の里】を鋭く冷たい凍て風が吹き抜ける。


 その瞬間、頬を礫が掠めた。すっと紅い血が頬に滲む。切れた頬に熱が走ったが触れている余裕さえなかった。早くこの場を離れなくては、もっと酷いことになると知っていたからだった。


 ざ、ざと草履が落ち葉を踏む音が山間の里に響いている。この時期はこの小さな里が真っ赤に染まる。最も美しい時季のひとつだったが、そういった風景に注意を払っている余裕は玉藻にはない。


 凍えた手に息を吐きかけながら、井戸から水を汲んだ。水面には疲弊しきった顔の娘が映り込んでいる。髪は異形のあかしのような金色で、瞳は淡い水色だ。髪も目も、この辺りに住む里の者たちとは大きく違っている。


 ある日、幼い玉藻がこの里の奥深くにある水津ヶ淵に流れ着いていたらしい。それを哀れに思った子供のいなかった老夫婦が引き取って、育ててくれたのだ。


 玉藻は急いで汲んだ水を人家の群れから離れた山裾のあばら家まで運んだ。

 かつてこの小さな家は養父母の住居であったが、一年前に義父が死に、つい先月に玉藻とふたりで暮らしていた義母も息を引き取った。じいさんを看取ってからでよかったよ、と最期まで朗らかに玉藻に言って翌日の朝には冷たくなっていた。


 中秋のいまも隙間風がびゅうびゅう古い家に入り込むが、冬になればこの里一帯は白くて重い雪に覆われる。いつ屋根が抜けてもおかしくない廃れ具合だったが、年若い小娘ひとりで修理するのは困難だった。


 冬を越せないかもしれない――そんな考えは玉藻の中にあった。いままで里の皆とあまり接することなく過ごしてきたが生活の破綻は目に見えていた。


「玉藻、いるかい」


 急に掛けられた声にびくっと肩を揺らして恐る恐る振り返る。戸口に立った青年は玉藻の姿を見て顔をふわりとほころばせた。まるで石楠花のように艶やかで美しい。つい見惚れていると、青年は「どうしたの」と首を傾げた。


「……っ」


 ぶんぶんと首を横に振って応えると、青年は板の間に腰を下ろした。


「今日は猪肉と卵を持ってきたよ。玉藻はやせっぽちだから、少しはこういうのも食べないと」


 彼は【風花の里】の里で組頭の長男、幸久という。玉藻のことを里の誰もが無視するか痛めつけようとする機会をうかがっているのに、幸久だけは気安く声を掛けては、こっそり食料を分け与えにこの古びた家を訪ねてくれるのだった。


「あ……りがとうございます、幸久さま」


 いつも。いつもこうやって幸久は優しくしてくれる。それが嬉しくてありがたくて、玉藻は泣きそうになる。こみ上げてくるものを堪えて頭を下げると優しく大きな手がぽんぽんと玉藻の頭を撫でた。


「大丈夫だよ。玉藻は何も悪くないんだ、いずれ里の皆もわかってくれるさ」


 幸久がわかってくれているのならそれでいいのだ、そう言いたくなったけれどぎゅっと唇を引き結んで玉藻はこくりと頷いた。家族と呼べる相手を亡くしたばかりの玉藻にとって、幸久だけが友であり、兄であり、恵み与えてくれる神のような存在であった。


「そういえば玉藻はいくつになるんだっけ」

「あ……たぶん、十七、です」


 義父母が淵に流れ着いた少女を拾い、玉藻と名付けた頃おそらく七つぐらいだと決めたから「たぶん」。あれから十年経つから玉藻は十七歳だ。すると幸久は目を細め、ほんの少し悲しそうな顔をしたように見えた。


「そろそろ、誰かいい人でも見つけて結婚でも出来ると良いんだけど」

「あ……私は、そういうのは」


 いいです。むりです。


 どちらを言うのが適切なのかしばらく考えているうちに幸久が玉藻の戸惑いに気付いたらしかった。ごめんね、といっそう申し訳なさそうに謝られてしまった。


「無神経なことを言ってしまった」

「その、私は大丈夫です、から……」


 じっと幸久は玉藻の顔を覗き込んだ。涼やかな眸に異形の己の姿が映り込んでしまうのが嫌で、そっと玉藻は目を伏せた。


「玉藻は美人だよ」

「な……そんなわけありませんっ」


 驚きのあまり、少し怒ったような調子になる。大きく見開かれた幸久の眸には頬を真っ赤に染めた玉藻がいた。


「本当だよ。俺は嘘を言わないんだ」


 穏やかな声で繰り返し言われて、玉藻はそっと俯いたのだった。

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