紅き淵の花嫁
鳴瀬憂
異形の少女は蛟に身を焦がす
序章 黄金色の花嫁
00
白き衣装に身を包んだ花嫁がしずしずと歩いていく。
【
花嫁は絢爛豪華な衣装というよりかはただ白く、質素な装いをしていた。
水津ヶ淵まで続く行列が始まるのは里長の家からだ。
身寄りがない花嫁の代わりに付き従うのは里長の息子夫婦だった。彼らの子供たちは沿道から行列を気難し気な表情で腕組みをしながら玉藻を睨みつけている。
中には幸久の婚約者である紗代子の姿があった。
不満げに眉を顰め、列の前の方をきつく睨んでいる。花嫁行列でありながらもさながら葬列のようでもある。列に加わる誰もが俯き加減に地面を見つめながら、また道端から見送る者は沈鬱な表情でこの長い長い行進を見守っていた。
里から正面の山裾にむかって歩いていく最中、何度か玉藻は躓いて倒れそうになったが手を貸してくれるものは誰もいなかった。触れることで厄がうつるとでも考えているのだろう。ふだんから、玉藻と目を合わせる者もおらず、物を渡すときにも手が触れることを極端に恐れていた。
穢れか何かだと思われていたのかもしれない――。玉藻は沈んだ気持ちのまま息を吐いた。私はこのまま、誰も彼もに疎まれ蔑まれたまま冷たい水の中に飛び込むのだ。それは恐ろしいことであるはずなのに、何故かせいせいするような気がしたのが不思議だった。いっそこのまま終わってしまえばいいのに、空想では何度も考えてきたことがいざ現実になろうとしている。
白い手袋をはめた指先が次第に氷のように冷たくなってきていた。とっくに凍てついてしまっていた心に呼応するように身体全体に痺れが走り、震えが止まらなくなってきている。
まだ遠い、まだ先だ。そう思っていたのに一歩一歩行列は前へと進んでいく。歩きにくいこの真新しい草履を脱ぎ捨て走り出せば、なんとか逃げられるかもしれない。そんなことを考えながらもどうせ無理だと頭の中の声が打ち消した。
落ち着いて考えてもみなさい、玉藻――藪の中に逃げ込んだところで、すぐに捕まるのがおちだわ。それにこうも囲まれていては、そんな空想を実行する前に肩をつかまれてしまうでしょうね。
はっと気づいたときには行列は止まっていた。
眼前には深く底の知れない淵を見渡せる崖があった。先に進め、と里長が呼びかける声におずおずと従って前に一歩足を踏み出した。
秋が深まるとともに色づいた葉が雪のように舞い落ちて、深き淵を紅に染めていた。いつにも増してこの時期の水津ヶ淵は神々しくも恐ろしい気配があった。
それにしても眼が眩むような高さだ――玉藻は怯えたように、びくりと肩を揺らし振り返る。だが左右を屈超な里人で固められた彼女を助けようとする者はひとりとしていなかった。
「……っ、ゆきひさ、さま」
小さな声で名を呼んだ。人々の中に隠れるようにして立っていた男はうつむいたまま顔を上げることはなかった。
助けを求めようとしたわけではない、最期に挨拶をしたいと思っただけだ――ただそれも叶わなかったのだけれど。
里長が水津ヶ淵に向かって、何かまじないのような文言をとなえている。玉藻にはそれにどんな意味があるのかはわからなかったが、この里においては「掟なのだから」の一言ですべて片付けることができる些細な事象でしかない。
花嫁に選ばれた娘が数年に一度、不作の折に水津ヶ淵へと捧げられるのも掟だから。
高き断崖から花嫁が淵に飛び込まねばならないのも掟だから。
身寄りのない「異形」の玉藻が花嫁に選ばれたのも掟だから。
玉藻が里の人々から虐げられてきたのも掟だから。
何もかもが「掟」で縛られたこの里では、自由はなく絶えず息苦しかった。それももう終わりだと思うと玉藻は胸がすくような想いではあった。ただ、この水底に沈んでいく自分自身は二度と目覚めることのない永久の眠りにつくだろうことは予想がついていたのだけれど。
そろそろまじないの言葉が終わる。この水津ヶ淵に棲む蛟様に向かって捧げられる言葉なのだと聞いてはいたけれど、花嫁にはそれが何を意味しているのかさえもわからなかった。
そのとき風に巻き上げられ、花嫁がかぶっていた角隠しが飛んで淵の中へとひらりと舞い落ちていった。一斉に、あぁと人々の間からため息にも似た声が漏れる。
花嫁の髪の色は薄曇りの中差し込む日差しを浴びて、きらきらと光輝く金糸のよう。
その双眸は晴れの日の空を写し取ったような淡い色をしている。
おぞましい、という声が上がった。
この里に住む皆とは違う異形の娘。
髪の色や目の色を気味が悪いと言われ続けたものの、年を重ねるたびに美しく成長する玉藻の姿に下卑た視線を送る里の男たちも多かった。里の女たちは、蛟様の花嫁に玉藻が選ばれたと聞いて深く安堵し、密かに喜んだ。
里長のまじないの声がふつりと途絶えた。
一斉に玉藻に視線が集まる。あとは聞いていたとおりにやるだけだ。風に乱された髪を押さえつけ、整えてからここまで行列を成した者たちに対して深々と頭を下げた。
それから里長に目で礼をしてから一歩前に歩み出た。
覗き込んだ淵は紅く、まるで血の色のようにも見えたのはいまから自分がそこに飛び込むと思うからかもしれない。飛べ。そう囃し立てる声こそ聞こえなかったが背中に刺さる視線が、早く早くと玉藻を急かした。
ざり、と砂を踏む音と共に小石が崖から淵へと零れ落ちる。
ざり。ざり。ざり。
たった数歩、前に出ただけで足ががくがくと震えている。怖い。こんな高いのに、飛び降りるなんて。どうして私がこんな目に。眼にじわりと涙が溜まる。それでももう引き返すことなんて出来やしない。
崖のふちにまで立って足が止まる。怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い。どうしよう助けて。誰か助けて。
――あ。
どん、と背中に強い衝撃が走った。
ぐらりとよろけて、次の瞬間には身体が宙に踊る。
落ちる――真っ逆さまに落ちていく瞬間に玉藻は自分の背中を押した者の顔を見た。
「幸久、様……!」
青ざめた顔の青年が断崖の上に立っている姿を見た。どうして、なぜ。
そんな疑問符が浮かんだ次の瞬間には純白の花嫁は紅の淵に叩きつけられ、そのまま沈んでいった。
花嫁の真っ白な角隠しだけが、ぷかりぷかりと紅き淵に浮かんでいた。
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