大政奉還

林マサキ

第1話 慶喜、将軍に就任する

 慶応二年一二月五日、西暦の一八六七年一月一〇日、将軍就任を拒み続けた一橋慶喜が徳川幕府第十五代将軍に就いた。

 これまでの徳川将軍家を巡る話はこうである。

 当時、病弱な第十三代将軍の徳川家定の後継者問題をめぐって幕閣と大名の間に、「一橋派」と「南紀派」の間に対立が生じた。

 一橋派は老中の堀田正睦、尾張藩主の徳川慶勝、薩摩藩主の島津斉彬、宇和島藩主の伊達宗城、土佐藩主の山内豊信、越前藩主の松平慶永などおり、一橋家当主の一橋慶喜を擁立。

 片や、南紀派は彦根藩主の井伊直弼。紀州の徳川慶福を擁立した。

 御三家、御三卿、親藩、譜代、外様大名、幕閣たちを巻き込んだグチャグチャの派閥争い、権力闘争。

 安政五(一八五八)年四月、井伊直弼が大老に就任し、六月には徳川慶福が将軍後継となり、南紀派が勝利した。

 この頃、アメリカ、イギリス、オランダ、フランス、ロシアの五カ国から外交条約の締結をせっつかれ、京の御所に勅許を求めたが、異国人を嫌う孝明天皇の不同意の意志は固く、勅許を得られなかった。

 二五〇年にわたって国政を運営していた幕府のすることに同意を得られると思っていた幕閣たち。

「お上は幕府のすることに承諾するだけ。条約締結の一択ではないか」

「不良公家どもが、天子様にいらぬことを唆したな!」

 と反発。勅許を得ぬまま条約を締結した。

 これに尊王論者は猛激怒。

 各地で、天子様を崇め外国からくる野蛮人を追放せよ、という「尊王攘夷」を唱える者たちが糾合し、幕府を非難する声はさらに激しくなった。

 一方で、開国論を唱える人たちは井伊大老他の幕閣のしくじりにニンマリ。

 怒った井伊大老は自分を非難する者を徹底的に弾圧。安政七(一八六〇)年三月、一連の動きに反発した。

 水戸脱藩浪士たちに、江戸城桜田門外で襲撃され、命を落とした。

 井伊大老の死後、磐城平藩主で老中首座の安藤信正らは幕府に反発する尊王攘夷論者たちを納得させるために、徳川幕府と京の朝廷を結合させる政策を採った。

「そのために、まずは公方様が畏きあたりのお方と“合体”していただかなければならぬ」と安藤。

 孝明天皇の妹の和宮と家茂の結婚を考えた。

 交渉はずいぶん難航したが、岩倉具視が、

「攘夷実行を条件にされたてはいかがですかな」

 と進言。

 文久元年(一八六一)年11月、江戸に向かった和宮は、文久(一八六二)年2月に婚礼の儀をあげた。

 ところが、この「公武合体政策」はかえって尊王攘夷論者の怒りを買い、4月、水戸脱藩浪士たちに、江戸城坂下門外で襲撃された。

 安藤は難を逃れたが、大騒ぎの中、背中を負傷したのがマズかった。

「武士が背中を切られるとは何事か!」

「おめおめ逃げ帰りよって、武士の風上にもおけぬ」

 と他の幕閣たちから猛非難。

 老中を降ろされた挙句、所領を2万石削られる懲罰対応。

 一方、松代藩の佐久間象山、肥後藩の横井小楠のような人々の間でもはや「外国人はキライ」などという感情的な鎖国を通用しないと考えていた。

 とはいえ、今の幕府を中心とした欧米との外交によって開国し、新たな通商関係は望ましくない。

 欧米との“対等な”外交を行うには、まず先進的な産業を導入して国を富まさなければならない。

 そして、最新の技術を学び、強力な兵器を購入して兵を整えなければならないが、とくに島国日本は、水兵、船舶を最新のものとした、海軍を創設しなければならない。

 その実現実行のためには、今の親藩と譜代の大名が幕府中枢を独占する既存の体制ではダメだ。

 より広く天下に有望なる人材を求め、積極的に意見を取り入れ、公正明大に国政を運営する制度を確立する必要を唱えた。

 そんな中、長州藩では長井雅樂が、開国通商による国力増強、海外への積極的進出を提言した「航海遠略策」を唱えた。

 長井の案は長州藩の藩論となった。

 安藤信正や久世広周ら老中もこれを支持したが、長井の案は長州の体制変革に至らぬまま、安藤信正が坂下門外の変で失脚すると、久坂玄瑞などの尊王派が勢力を拡大し、長井も同じく失脚した。

 坂下門外の変がおこった同じ月、前薩摩藩主斉彬の弟の久光が藩兵千人を引き連れて上洛した。

 久光は藩主重久の父として実権を握っていた。

 薩摩藩は、斉彬が目論んでいた、一橋慶喜を担いで親藩、譜代、そして先進的な取り組みを行っている外様各藩が幕政に参画する体制を確立し、朝廷と幕府を結合させることであった。

 この頃の京は和宮の“江戸降嫁”に憤激する尊王の志士たちが洛中各所で会合を開き、さらに尊王派が勢いをます長州藩も積極的に朝廷工作を繰り広げるなど、不穏な空気に包まれていた。

 朝廷は久光に京の平穏を保つよう命じると、これに応じて自藩の過激な尊王論者たちをアジトとしていた寺田屋で血祭りにあげた。

 朝廷の信頼を得て、これに自信を深めた久光。朝廷に“幕府改造案”を提出。

 さらに改革を命じる勅命をたずさえて江戸に向かった久光。

 これを受け幕府は改革を実施。

 一橋慶喜が将軍後見職、松平春嶽が政事総裁職に就任。

 文久三(1863年)八月十八日には、会津藩と同盟を結んでいた薩摩藩は、尊王派の公家である三条実美一派と後ろ盾であった長州藩を京都から追い出した。  

 朝廷は島津久光の他、一橋慶喜、松平春嶽、伊達宗状、山内容堂など有力者に上洛を命じた。

 元治元(1864)年2月には、将軍家茂も上洛。

 幕府は様々な改革を行った。

 榎本釜次郎などの幕臣が、海外の海軍学校に数年間留学するために派遣され、フランスから派遣された海軍技師レオンス・ヴェルニーによる、横須賀や長崎の造船施設の建設が始まった。

 改革半ば、家茂が21歳の若さで亡くなった。

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大政奉還 林マサキ @hayashi-Kirjailija

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