チラシ
鍋谷葵
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ある五月の麗らかな日、北陸の実家から離郷した私は関東の借家に帰るついでに新宿の中古CDショップに寄った。
汚らしく、いかがわしい街の全ては私を不快にさせた。いや、街だけではなく、新宿に向かうため、上野から乗った混みあった山手線、そして大人口を抱えている東京という存在そのものが私を不快にさせていた。鼻につく飲食店の排気と下水の臭い、肌に纏わりつく不快感とこれに伴う苛立ちを抱えながら、私はビルの二階へと足を運んだ。
二階の狭苦しい一室にはCDがこれでもかと陳列されていた。そして、街や電車と変わらず人も大勢居た。プラスティックケースが並ぶ棚は、私の心を安らげた。私はそこで色々なアーティストのアルバムを物色した。しかし、気に入ったものがあっても、それを手に取り、値段を見るとやりきれない気分になった。働いていない自分に対する嫌悪がそうさせる。
欲しかった”The 13th Floor Elevators”の1stは高価で買えず、妥協して五百円相当のCDを二枚購入した。ただ、妥協したCDは、いや、本当に欲しかったそれでさえ私は聴き馴染んでいた。
黒いビニール袋に詰められた二枚のCDを引っ提げ、新宿駅に帰ろうとした。しかし、店内でCDを物色している間に来た道を忘れてしまった。また、不幸なことにスマートフォンの充電も切れていた。
不快な街を歩き回ることを私は余儀なくされた。薄っすらとした記憶を頼りに、五月初旬なのにもかかわらず熱のこもった街を私は歩かなければならなかった。
漠然とした不幸を感じながら、私はぼんやりと顔を上げて、国道に沿った歩道を目指し、私は倦怠を覚える足を引きずるようにして歩き出した。ただ、その一歩を踏み出した瞬間、何かの不幸が始まるんじゃないかと不意に思ってしまった。そして、その不幸は経験したことのない女性から始まるのではないかと。
居酒屋やカラオケ、漫画喫茶などが入ったビルが作り出す圧迫感のある格子状の通りは、特別なものがあるわけでもないのに、人がいない場所が無かった。そして、絶え間なく人はビルに出入りしていた。そうした様は感染症と不景気による経済の停滞を感じられなかった。むしろ、私の頭には好景気という言葉が浮かんでいた。それが幻想であることを知っているのにもかかわらず。
頭の中で下らない妄想に耽りながら、私はその妄想の中に現実を取り入れようときょろきょろと周囲を見回した。よそ見しながら歩くというのは危険であるということを知っていたが、私のそれは癖になっていたため、止められなかった。しかも、妄想に現実を取り込むとき、私が手にできるのは女性の実であった。それは未知なる幻想だからこそなのだろう。あるいは乳頭を知らなかったためなのかもしれない。
妄想癖はふいに目の前を歩くとある女性を捉えた。二十代前半かと思われる彼女は黒髪を長く伸ばしており、背は高く、身は細かった。そして、白いワンピースを纏っていた。彼女存在を捉えた私の頭は、彼女を妄想の中のマルガレーテとした。純粋無垢で、信仰に篤く、誰よりも私のことを思いやってくれる女性として私は妄想の中に彼女を落とし込んだ。しかし、ファウストの道筋を辿った妄想の中で彼女は辱められ、狂わなければならなかった。そして実際に彼女は私の妄想の中で孤独に死ぬことが決まった。
結末が決まった妄想は加速した。それと同時にこの妄想を決定着けるために、私の歩みは早まった。私の心は一刻も早く、彼女の顔を求めたのである。彼女を追い越すその瞬間に、彼女の顔を捉えて、妄想を具体化させようとしたのである。臆病で、ネガティブな傾向にあり、幸福すら信じられない人間が頭の中で作り出す精一杯の幸せに色を付けるために、私は彼女の横を通り過ぎた。
しかし、私の澱んだ頭は彼女の顔を捉えた瞬間、止まってしまった。彼女は美人でも醜くも無かった。それは凡庸なある女性の顔でしかなかった。そうして私は彼女を見放すように、早歩きで国道沿いの歩道めがけて歩き出した。ただ、彼女の顔は妄想を焼き尽くす形で私の脳にびったりと張り付いていた。それこそが私に対するリアルであると言わんばかりに。
妄想に浸される脳に突き付けられるリアリズムは私を焦らせた。上手くいかない現実と、それを作り出している繊細な心を守るために生み出された攻撃的かつ差別的な一面が心を抉ったのである。
私は焦りながら歩いた。半ば走るような速度で、人混みが多い方へと向かった。宿痾の喘息を持っていることを忘れ、ただ人に対する迷惑は忘れずにただただ歩いた。じっとりとした汗と醜いばかりのエゴイズムを抱えながら私は歩いた。
ぜえぜえと息を切らし、ついに国道沿いの歩道に出ることができた。そして、ガードレールの前に地図があることを雑踏越しに見つけた。私は頭を下げ、自動車の騒音にかき消されるだけの謝意の言葉を紡ぎながら雑踏の中を横切って、簡易的な地図の前にようやくたどり着いた。
倦怠と自罰感が心を苛んで仕方がなかった。そして、喧騒と外気温とが精神的衰弱を促進させているような気がしてならなかった。ただ一方でもうすぐ帰れるということに対する安堵も覚えていた。
ふうっと溜息を吐き、地図を見て、駅の位置を把握した。ただ私の骨ばって衰えた体は休息を求めていた。そしてその暇の中で、再び始める妄想の大筋を決めるため、腕を組んで俯いた。
ふと、私は一枚のチラシを見つけた。地面に捨てられたそれは踏み続けられて、すっかり歩道に癒着しているように見えた。
ただ、私はそれを見なければよかったと後悔して、すぐさま目を逸らし、後悔を作り出した手に提げるビニール袋を見つめた。ヒポコンデリー気味な頭は、そのチラシが、赴いたばかりのCDショップのチラシが、そしてそこに印刷された叫ぶ男のアルバムジャケットが、ビニール袋に入っている同バンドのアルバムと連関して私自身の状態を比喩しているような気がした。すなわち”21st Century Schizoid Man”なのではないかと告げられているような気がしてならなかった。鬱屈とした妄想癖にはそうとしか考えれなかったのである。
チラシ 鍋谷葵 @dondon8989
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